コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの
2017年2月1日(水)
・「何かを得るためには、何かを捨てなければならない」
この言葉は確かにそうなんだけど、映画や本やドラマで見る限りは、ややネガディブなニュアンスで伝えられていることが多いように思う。
僕は本来この言葉は非常にポジティブなものとして捉えている。
自分の心残りを捨て去ることで、次のステップに進めた。
腹ただしい感情を捨て去ることで、新しいコミュニケーションが生まれた。
ずっとくすぶってた思いを手放すことで、前向きな気持ちになれた。
など、自分の中のネガディブなものを手放すことで、ポジティブな結果を得るというのが、この言葉の本来の意味だと思う。
よくあるシチュエーションとして、
古巣から新しい場所へのヘッドハンティングを受けた男が、「何かを捨てなければ、得ることはできない」と、古巣を裏切り新しい場所に行く。しかし利益優先の仕事のやり方に、良心に気づき、古巣に戻ってくる物語。
これは、結局「古巣を捨てて、ステップアップを得た」ということになるかもしれないけど、実は何も得ていない。
最終的に捨てたのは、自分の不自然な承認欲で、それを手放せたことで、本当の意義ある仕事を得ている。
ポジティブなものは、本当は捨てることができない。そして、ポジティブなものを捨てて、さらにポジティブなものが手に入るのかというと、そういうわけでもないと思う。
自分の幸せを捨てたら、きっとより良い現実がやってくるというのは、僕たちがよくやってしまう、悪循環の想念のパターンになる。
こんなにつらいことしてるんだから、耐えているんだから、幸せがきたっていいんじゃないか?
だから、何かを捨てるのなら、そうした幻想を捨てよう。自分をとりまく、自分で作り上げてきた思い込み、防衛反応。そうすることで初めて本当の自分に気づき、自分を苦しめていたのは、自分だったことに気づく。
今日も見てくださり、ありがとうございます。体調の変化が出やすい季節。どうぞ寒さに気をつけて。
小林 克
2017年2月2日(木)
・動的瞑想
普段何かの作業のとき、それについてのことだけを考えることは、本当に難しいことだ。
自分の思い浮かぶ色んなものをどんどん頭の中で流していくような瞑想をする時がある。
前にも書いたけど、それをしているといかに絶え間無く想念が浮かぶかがわかる。
それを作業のときに応用してみる。例えば運転のとき、運転だけに集中することの難しさが余計にわかる。出てくる運転に関係ないことをハローといいながら無視していくのだが、
目を開けながら寝てもいるのだろうか?
どんどん思い浮かぶから面白い。
いつの間にか鼻歌を歌ってたりして、頭の中には何かの情景が常に浮かんでいる。
まるで想念の海の中を生きているみたいだ。
そして、僕たちは、僕たちの頭が作り出す情景の世界の中でいきていることがわかる。
そういえば、昔「マトリックス」という映画があった。仮想現実世界の話だけど、それは、僕たちの頭の中はまさにそんな感じだ。事実以上に頭で思い描かれた世界を生きている。
だから、ある意味瞑想というのは、瞬間、瞬間にある現実に目を向ける練習であり、動的瞑想というのは、物事を本当に楽しむ一つの方法かもしれない。
今日も見てくださり、ありがとうございます。僕は「心頭滅却すれば火もまた涼し」ではなく、「心頭滅却すれば、暑さも素敵に感じる。」くらいにしておこう。
小林 克
2017年2月3日(金)
・一年で一番静かな日
去年の今頃は、引越しで必死だった。
朝からバタバタで、引越し業者さんを誘導していたのを思い出す。
あれから一年。
今朝は、妻と朝食を食べ、紅茶を飲んだ。
子供はまだ寝ている。
穏やかで澄んだ気持ちで、今日という日を迎えれているのは、この一年が与えてくれたものだと思う。
本当にありがとうございます。
今日は一年で一番静かな日。
また、今日から一日一日を積み重ねるつもりで、大切な毎日を過ごしたい。
去年の今は、それくらい印象的な一日だった。
そういう一日は誰にでもあると思う。人はそういう一日を迎えるたびに、何か思って、何かがはじまって、何かを進めていく。
また、色んなものが、新しくなる。
今日も見てくださり、ありがとうございます。去年はできなかったけど、今年は僕、鬼になります。泣かすぞ〜(笑)
小林 克
2017年2月4日(土)
・オステオパシーのいいところ
患者さんにこう言われたことがある。
「オステオパシーがいいなって思うところは、寝てればいいところです。」
僕もそう思う。
オステオパシーは患者さん自身が過去にさかのぼることも、特に患者さんに負荷を与えるようなこともない。
もちろん、家でできるエクササイズとか、今の時期だからこそ気をつけておいた方がいいこととか、そういう指導をすることはあるが、強制ではない。
そっちの方がベターですね。
という感じだ。
自分自身で体と向き合おうという意識は何より大切なことだけど、自分だけでなんとかできないのもまた事実で、そうしようと思うと、それこそ治療家として生きるくらいの経験と知識が必要になる。
健康になるために、自分でできる最大なことをあげるなら、
嫌なことは水に流して、どんどん直感に従って、自分の人生を楽しんで生きてもらうことかな。もちろん大切な人たちとともに。
人が一人で生きれないのなら、一人で生きれない、一人ではどうにも難しいところを担うもので、オステオパシーはありたいと思う。
本質的な意味で。
オステオパシーを受ける時、嫌なものは嫌と言っていいし、できる限り患者さんにとって、ベターな補助でありたい思っている。もちろん、治療の方法上、痛いと思われることもあるけど、それが嫌な感じがするなら、どんどん言っていい。強制はない。
むしろ、言わないで黙っていることの方が、あまり良くない。
難しいことはなにもない。
それがオステオパシーと患者さんの関係だと思う。
今日も見てくださり、ありがとうございます。ただ詳しくどのようなことをやっているかということを説明してと言われると、一つ一つ順を追って知識を補充しないとできないことなので、そこは難点だ。理解するのは、医療関係者でもなかなか難しい。
小林 克
2017年2月5日(日)
・子育て
子供を育てることは、自分とどう向き合うことと似ている。
子供は見透かすようにごはんを食べない。
こっちが食べさせようと意識すれば、するほど「やだ!」になる。
ところが、こっちが逆にひらきなおると、とたんに食べだす。
それがわかるから結局戦っているのは自分の気持ちだ。
引いても、引いても手ごたえがない。
水を相手に相撲をとっているようなものだ。
ちなみにオステオパシーで体をみると、本当に水のようにやわらかだ。
実は水なのかもしれない(笑)
バケツの水はおしてあげると自分のところに帰ってくる。
だから自分を整えて、落ち着かせて、合わせたり、促したり。
0から始める。
愛とは何もないことだ。
誰かから聞いた言葉を思い出した。
今日も見てくださり、ありがとうございます。昨日は久しぶりの休みで、こどもとたくさん遊べた。不思議だよね。やらせたいと思うとだめだけど、一緒にやろうは大丈夫なんだ。
小林 克
2017年2月6日(月)
・朝を本気で起きることの重要性
優秀な人材を育てるために、健康の問題の指導に熱心になっている会社がある。
Googleだ。
いつもお世話になっております。
この会社は、健康ということに対して、独自にどのようにパフォーマンスを上げるかを探求してきたところがある。
健康を捉えるときに、医師というのは基本的に患者を対象にする。
でも、Googleが知りたいのは、ビジネスパーソンとして、パフォーマンスを上げて、長く良いパフォーマンスを持続していってもらうために必要な健康は何かということなのだ。
だから、健康ということに関しても、独自の探求をしてきたところがある。
その中で、睡眠についても言っている。
おそらく激務であるだろう、Googleの社員、睡眠時間が少ないときもあるだろう。
例え、仕方なく睡眠がとれなくても、パフォーマンスを保つ秘訣はどこにあるか?
それは、朝起きる時間にある。
朝起きる時間を一定にすること。
休日でも、仕事の日でも、何時に寝ても。
休日だから、遅くまで寝る。昨日遅くまで仕事してたからもうちょっと。
バラバラの時間に起きることで、体は時差ボケを感じるようになる。すると、倦怠感がでてきたり、月曜の朝など、特に元気がないということになる、と。
一定の時間に起きることで、神経系としては、リズムができる。長距離も一定のペースで走れば、楽に長く走れるように、生活に節を入れることが、パフォーマンスを保つコツ。
一つ参考になる意見だった。
今日も見てくださり、ありがとうございます。では、普段は、朝極端に早い人。でも、時々夜まで仕事があったりとなかなか一定にするのが難しい人はどうしたらいいだろうか?僕は、本当に大切なのは、起き方にあると考える。
小林 克
2017年2月7日(火)
・朝を本気で起きることの重要性2
朝起きるというのは、すごいことだ。
副交感神経優位の睡眠状態から、活動的な神経系の働きへのスイッチの瞬間。瞼を開き、視覚という人体で最も多い情報系を活動させる瞬間。呼吸のパターンも、睡眠のほぼ、自律的なものから、活動をするための呼吸へ変わる。
朝起きるというのは、すべての神経系のパターンの切り替えの瞬間だ。
そして、実はよくよく考えると、人間の自律的な生命維持活動に、唯一意識的な要素を加えることのできるただ一つの時だ。
自律的な反応はコントロールが普通はきかない。ストレス下における、自律神経の活動の立ち上がりも、夜の入眠も、消化も、血流も。
考えてみると、自律神経の活動に関して、直接的に介入できるのは、呼吸と朝起きるときの切り替えだけだ。
では、どのように起きたらいいのか。
さっと起きること。
さっと、布団からでること。
ただこれだけ。
でも、これはあらゆる意識、習慣、神経のパターンを切り替える練習になる。
かの西郷隆盛は、
朝目覚めた瞬間布団を蹴り起き、直立不動に立っていたという。(笑)
神経のパターンの切り替えというのは、あらゆる慢性的な症状、ビジネス、家事、悩み事すべてに共通して大切なテーマだ。
朝が起きるのがつらい、この季節。
一緒にチャレンジしてみませんか?
僕もがんばります!
今日も見てくださり、ありがとうございます。朝を一定の時間におきること。これも、大切。だけど、それ以上に大切なのは、どれだけスッキリ起きるか。もちろん難しい人もいます。オステオパシーが必要な場合もある。でも、意識は絶対に必要になるから。全ては建設的に良くなろうとする意志に健康は支えられる。
小林 克
2017年2月8日(水)
・平和とは安心感
平和とは、「安心感」のことではないかな。
と、思う。
お金がたくさんあったら平和なのかと言われれば、きっとそれは違うだろうし、
社会保障がしっかりしているから、会社の福利厚生がしっかりしているから、平和なのかと言われたら、そうではないよなぁと思う。
では、安心感はどこからはじまるのだろうか?
心理学の世界では、
それを「基本的信頼感」とよぶ。
生まれてから3〜4歳までに子どもに育まれる感覚だ。
生まれてから3〜4歳までは、脳の言語野の発達は不十分だ。子どもは色々な出来事をことばであらわし、分類することができない。このときの記憶は非常に印象的なものでぼやーっとしているが、なんとなくの印象、なんとなくの感情で記憶される。そして、その感情は人生で一番最初の価値判断の基準となっていく。
このときのことを僕たちは覚えていない。
感じるのはなんとなくの不安感だ。
ここまでは学術的なことなんだけど、
ここからは私見で、
記憶というのは、印象深いものほどよく記憶される。たぶんこのときの全ての赤ちゃんは、嬉しかった、楽しかったを記憶するよりも、より不安を感じたり、怖かったりしたときのほうが印象深い経験ではなかろうか。だから、よく「基本的信頼感」を育むということを言われるけど、このときの記憶のあり方って、言葉は悪いんだけど、減点方式なのではないかと思うんです。ということは、多かれ少なかれ全ての人が不安の原形をつくる、という形で終わり、そこからどう信頼感、安心感を育むかは、それから先の課題として残されていくのではないかなと思うんです。
だから、ぱっと感じる感覚は、不安感なんだけど、それは、ただの印象だけで、覆ることは、大人になってからのたくさんのやり取りの中でだと思うんです。
そして、嬉しかった、楽しかった、安心したその感覚は、脳には刻まれにくいけど、肌を通して鮮烈に記憶されています。
その記憶に気づいていくこと。本当の思いに気づいていくこと。
これが「安心感」を得る本当の方法。
だから、一番の根本は「夫婦」
本当の平和は、「夫婦」からはじまる。
自分の心の中の「夫婦」。
今日も見てくださり、ありがとうございます。
「お金」を過剰に求めたのは、その代償。「保障」を過剰に求めたくなるのは、その代償。
小林 克
2017年2月9日(木)
・変化は痛み
脳の研究は難しい。シナプスがどう変化していっているのかを、リアルタイムに化学的に捉えることは困難な問題だし、脳全体の活動でいえば、それらの信号のやりとりは、一ヶ所だけでなく、複数連携しあい、瞬く間に起こる。人によって様々なパターンがあるし、一定の結果として、なんとかまとめることはできるけど、じゃあその結果にそぐわない人は一体なんなんだと言われるとうーんとうなる。
例えば脳血流をみる実験でも、きっと脳血流と脳の活動性は何らかの関係があるはずだという前提に立っている。
状況の設定も一つ一つ設定する必要があるし、だから脳の研究は難しい。
だからこそ、臨床的な考察というのは非常に重要になってくる。
まだあまり言われてはいないけど、
変化の過程は痛みで感じられることは多い。
脳卒中などの患者さんでいえば、新しい動きができるようになる時や、新しく筋肉が収縮するときなど。
良い意味の変化もまた、脳にとっては痛みに感じる。
あまり多くはないけど、情動的な自己の反応が変わっていく過程でも、痛みとして身体の関連部位が感じられることもある。
だいたいそういうときに、多い症状といえば、腰痛、首痛、めまいといったところだろうか。
情動系の変化は、人間性の変化に匹敵する。
何かを大きく変えようとするとき、何かを大きく変わろうと建設的にチャレンジしようとするとき、痛みが一時的にブレーキをかけるかもしれない。それが前向きなとき、もしかしたらそんなもの物ともするなと、気持ちが上回ってそのまま行ったら痛みは消えていた、ということはあることだ。でも、そのあと自分に必ず帰ってほしい。よくがんばったねと。がんばったのは、自分自身としても、そうだし、両親からもらった身体もそうだ。そうすることで、新しいステージをより自由に生きていける。
今日も見てくださり、ありがとうございます。痛みは脳の中では痛み関連領域といわれる。それは、情動系とかも含むのだけど、たぶん新しい経路で進むことをパターンで痛みと認知してるのではないかなと思う。だから変化は痛みで感じる。
小林 克
2017年2月10日(金)
・親の心、子、知らず
両親の本当の思いに気づいていくことが、僕たちのもう一つの人生だ。
僕たちは知らない。
どんな思いで、自分が生まれた時、両親がその手で抱いてくれていたのかを。
僕たちは知らない。
どんな思いで、母が乳をあげ、夜中眠気を抑え、オムツを換え、手をかけてくれたかを。
どんな思いで、父が若いながらに、一生懸命働いてくれていたかを。
僕たちが、自然とその思いに沿うことができたのなら、どんなに楽な話だろうか。
でも、実際は違って、知ろうとしなければ、理解することはない。
人の表面にでない、本当の思いをちゃんと受け取っていくことが、もう一つの人生の課題だ。
記憶には残らない場所に、実は本当があって、
見えないところに、実は支えられている。
多くは、もう両親に聞くことはかなわいことかもしれない。
僕はこう思うことにしている。
今自分が経験し、感じていることが、当時自分たちの両親が経験し、感じていてくれたことなのだと。
僕が子どもを抱くように、僕は母に抱かれ、
僕が家族を思うように、父は一生懸命働いていたのだ。
親の心を、子供が何もせず知ることはできない。でも、知ろうとすれば、わかろうとすれば、それはそこら中に溢れている。
今日も見てくださり、ありがとうございます。大切だったものが、ちゃんと大切だと思えることは、すごいこと。
小林 克
2017年2月11日(土)
・感謝
オステオパシーの創始者スティル博士は、誰よりも苦労した男だ。
愛する子どもを疫病で失い、きっと、自分を嫌ほど責めただろう。
人の役に立ちたくて、大切な人を守りたくて、きっとかれも医師になったはずだ。
今まで苦労して積み立てたものを疑い、建設的に捉え直す過程は、きっと身をえぐるような作業だったのではないかと思う。
これまで、それを提供して来た患者に申し訳が立たなかったり、そうやってチャレンジしているのに、むしろ人からは非難ばかりうけた。
ようやく長年の苦節で見つけた不変と思える法則。方法。だけど、みつけただけでは苦難は終わらない。
そんな目新しいものを誰も信じようとはしない。今よりも何倍も閉鎖的な時代だ。本当に生きるに困った。食べるのにも困った。きっと、自分はなんでこんなに苦労して生きているのだろうと、何度も問いかけのではないか。ただ、みつけたものは明らかに真実。真実とわかって、それに嘘をついて生きるのは、死んだと同じ。きっとそんな思いで耐え抜いて来たのだと思う。
そんなスティルに助けを差し伸べる人たちがいた。パンを分け与えてくれた人。暖かな言葉をかけてくれた人。きっと支えてくれる家族もそうだっただろう。
彼はその恩を、生涯忘れないと残している。
スティルが作ったオステオパシーは、多くの人を結果として治し、彼を求めて、治療院のまわりには、ホテルができ、人がすみ、街ができた。
何かに行き詰った時、そうした先人たちのことを思い出す。そして、支えてくれている人たちのことを思い出す。感謝しかない。
今日も見てくださり、ありがとうございます。そう思うと、今がありがたくなる。今が明るくなる。そういう人たちの顔を大切に胸にしまって生きたい。
小林 克
2017年2月12日(日)
・オステオパシーを学んで
今思い出しても衝撃的だったのは、
はじめてオステオパシーと出会った時のことだ。
オステオパシーというものがあるということを知って、それが気になって仕方がなくなった。
そのセミナーに出ることは、決めたも、用心深く三冊のオステオパシー関連の本を買って、読んでから望んだのを覚えている。
本を買うのさえ、結構な勇気がいった。そんな高額の本を買ったことがなかったからだ。
でも、もうそうやって何かをやらずにいれなかったのだろう。
はじめてオステオパシーとはこういうものだということを知ったのは、オステオパシープロフェッショナル協会の「オステオパシーの世界へ」セミナーを受けた時のことだ。
会長の下村の治療デモは、それまでの臨床経験を覆すものだった。
思えば、きっと自分の中の何かを変えて欲しかったのかもしれない。
学ぶに足る圧倒的な差をみせつけてほしかったのだろう。
その後、フルフォードの「いのちの輝き」をひたすら読んで、さらに衝撃を受けた。
その時から、どれくらい経ったのか。
今はその協会で教える側にまわっている。そして
、開業しオステオパシーの施術を行っている。
何かがはじまるとき、もしかしたらそれはもう決まっているのかもしれない。
誰にもその先の未来なんてわからないけど、進み出したら止まることはできないんだ。
今日もみてくださり、ありがとうございます。きっとそんな瞬間はこの人生の中で何度も訪れる。一瞬、一瞬、すなおでいたい。
小林 克
2017年2月13日(月)
・余計なものをしょいこんで
いつからか余計なものをたくさん背負い込んで生きてきたようだ。
子どもを見てるとなんかそう思える。
心配しなくてもいいことに心配したり、
ひきづらなくてもいいのに、ひきづってしまうのは、大人がやることのようだ。
子どもをみてると、どんどん、どんどん先に、先に、次に次にやることが変わって、こんな風に作業できたら、なんと効率よく進むだろうかと感心する。
留まろうとしているのは、なんとなくのことで、別に全く意味もないんだけど、なんかそうしてしまうというのは、いつの間にか自分で、自分の自由を縛り付けてしまってるみたいだ。
そんなめんどくさい自分も、別に何かが特別にあったわけでもないのに、いつの間にか自分の一部になっていた。
そんな自分とどう付き合っていくかは、なかなか試行錯誤しているが、これが一番いいよねといえるものはない。
時々手放したり、時には自分の一部と受け入れたり、その時その時に落ち着く方法をみつけていく。
そうやってやっていくうち、一つ一つと自分の何かが変わっていく。
気付いた時には、変わっている。
体の癖も、心の癖も同じこと。
いつても対話しているのは、自分自身。それで十分なんだ。
今日も見てくださり、ありがとうございます。めんどくさいけど、そうやってもやもやできるの、今の自分を生きれている証拠でもあると思う。
小林 克
2017年2月14日(火)
・フルフォード
僕はフルフォードに関しては特別な思いを持っている。マニアと言ってもいいかもしれない。
フルフォードというのは、アメリカのオステオパシードクターのことで、日本には、「いのちの輝き」という本の著者として、知られている。
自然な医療の探求者として有名な、アンドリュー・ワイルの書籍に熱烈に紹介されたこともあって、そういう系統の医療を志す人たちには、知らない人がいない。
「いのちの輝き」を通した、フルフォードのことに関しては、コラムとして随時まとめている。
彼の書籍である「いのちの輝き」は以前も書いたけど、僕をオステオパシーに進める大きなきっかけをくれた本だ。
何が驚いたかって、オステオパシーのことだけでなく、医療界全体の見解や、科学研究への見解、それだけではなく、ルボワイエ博士などに代表さらるお産にたいしての見解と、かれの書籍を読むことで、僕自身のこれまでバラバラに取り入れてきた考えがまるでパズルがすべてはめ込まれたかのように、一つにまとめられていたからだ。
その医療者としてのあり方、考え方は、こちらが痛いくらい正しく感じられた。
それ以来、強烈な憧れをもち、マネをしてみたり、書籍は、隅々読んだりした。
少しずつ、少しずつ彼のやっていること、言っていることを理解しはじめ、ああそういうことかと思えたのは、つい最近のことだ。
アンドリュー・ワイルの書籍でも語られているが、非常に寡黙で、言葉静かな老人がその地域に作っていた医療は、ただ一個人の作るものの、可能性を感じさせてくれるものだった。
何がすごいって、、、。
こう話ししだす止まらなくなるので、そのうち書いていこうと思います。
医療の本当の未来は、すでに用意されていたのかもしれない、そう思えた。
今日もみてくださり、ありがとうございました。伝統とは、その先人が考え、気づいた過程を誰よりも知っていくことなのかもしれない。
小林 克
2017年2月15日(水)
・変わろうとすること。
どんな形にせよ、建設的に自分を変えようと努力することは、すごいことだと思う。
それは何がきっかけだったっていい。
今日言われた一言がきっかけになるひともいれば、
うまくいかなかったことがきっかけになったり、
あるいは、病気を経験したり、事業かなにかが不振に陥ったりというのがきっかけになる場合もある。
何かを変えようとする時、一番大切だと思うのは、
まず自分を変えるということだと思う。
健康に対する意識でもいいし、学術的なものへの取り組み方かもしれないし、自分の心に対してのものかもしれない。
建設的に変えるということは、どういうことかいうと、
粘り強く見つめ続けることだと思う。
たいてい、変え始めた当初は、膿みたいに自分の弱さが出だしたりして、まるでそのままでいろよと言われてるかのような出来事が次々に起こったりするものだ。
一つを振り払えば、また一つ。それも振り払えばまた一つ。そうやって粘り強く進むことで、今よりも自分を信じることができるようななっていったり、心の反応が変わっていったり、そうやって自分が変わっていくことで、まわりもだんだん変わりはじめる。
そうやって変えようと努力する人を、僕は尊敬する。流されず、粘り強く立つことのチャレンジは、何かを開発するとか、何かの世のため人のためにしようとすること以上に尊いことで、なおかつ困難なことだと思うからだ。
一人一人の中でできることがある。
それは何より尊いはずだ。
今日も見てくださり、ありがとうございます。そうやって、粘り強くやり続ける。きっと想像もつかなかったところへ行ける。
小林 克
2017年2月16日(木)
・大丈夫だよ。
人生とは不思議なもので、
自分の弱さがにじみ出るように、自分の嫌なところがにじみでるように、
物事が色々におこったりする。
まるで自分のみたくたない弱さに目を向けろといわれているかのように
それを乗り越えるしかないんだと言われてるかのように。
不安や心配、怖さ
そう言った感情を何度も引き連れながら、歩んでいく。
何かを見上げたから、はじめて知る自分がいる。
そんな問題に出会えたから、はじめて知る世界がある。
そんなめんどくさい自分も引き連れながら、ずいずいと進む。
自分で自分にかける、支えてくれる誰かが言ってくれる言葉。
大丈夫。
大丈夫だ。
そうやって乗り越えてはじめて知る。
この世界は、自分は、 大丈夫。
今日も見てくださり、ありがとうございます。大丈夫、大丈夫だよ。
小林 克
2017年2月17日(金)
・可能性を広げたい。
オステオパシーは可能性を広げる医学だ。そう思ったから勉強してきたし、進化させていっている。
今の医学が決定的に欠けているもの。それは、哲学だ。
西洋医学における根幹の考えは、対症療法にある。症状にフォーカスをあて、その症状をとめるための薬剤を処方する。あるいは、臓器を切り取る。
非常に変化があり、困っていることにフォーカスをあてるから、その困りごとが消えるのも早い。しかし、症状というのは、人の数だけある。だから、薬の量は増大していき、また新しい考えが次々にできていった。10年前に言っていたことと、今では真逆の見解となっているものも多い。
医者の中でも格差がではじめた。
突き詰めて考えれば、対症療法とは、結果さえでれば非常に良い方法である。しかし、その根幹に対して突き詰めて考えなかったがために、方向性を見失っているように見える。
オステオパシーはその間を埋めるものだ。スティルが求めたのは、人間にとって自然な状態とはなんなのか?ということだった。そして、気づいたのは、骨組みや関節、臓器なども含めて、全ての組織にあるべき場所、位置、動きというものがあるということだった。
それらを構造とよび、体の果たす機能との明らかな相互関係を見出したのだ。
つまり人間にとっての、自然な状態というのは、正常な構造にあると考えたのだ。
哲学とは、違う言葉にすれば、方針である。人間とは、本来こういう状態が正しくて、そこから抜け落ちたからサインがでているのだ。と。
だから、投薬をするときは、人間が生成できる物質だけでは、不十分な時などだ。例えば、欠損などがあって、十分に体の中で必要な物質が作れない時など。
この哲学は、つまりは人間にとって何が重要なことで、何が大切なことなのかという考えなのだ。これが対症療法には、視点としてどうしても抜け落ちてしまう。
考えなくても、良くなればいい。普通は、そうだ。しかし、それだけでは解決できない問題がたくさん、たくさん起こってきた。
オステオパシーは、この間を埋めるもの。
ここからうまれた哲学は、ステイルによってはじめられ、サザーランドによって精錬され、フルフォードによって進化、拡張された。
僕もまた、さらに拡張させ、臨床に取り組んでいる。
いまの医療を超えて、届かないものに届くよう、チャレンジは続いていく。
今日も見てくださり、ありがとうございます。可能性を広げるために。
小林 克
2017年2月18日(土)
・可能性を広げたい(リハビリテーション)
オステオパシーは可能性を広げる医学だ。そう思ったから勉強してきたし、進化させていっている。
今の医学が決定的に欠けているもの。それは、哲学だ。
ここまでは、昨日のくだりと一緒。リハビリテーションにも同じことが言えると考えている。
ずっと、疑問だったのは、人の治し方を探求せずに、どうして人がもう一度動くように促せるのだろうかということだった。
リハビリテーションの最大の強みは、促通手技にあると思う。時間をかけて探求してきたそれには、本当に可能性が宿っていると思っている。
しかし、体の状態はどうなっているのか?なぜ、病にいたったのか?回復は本当にそれが限界だったのか?そして、体として最も望ましい方向性とはなんなのか?
そういった疑問に答えを出すことはできなかった。
僕にとって、それを補充してくれたのがオステオパシーだった。
オステオパシーを学ぶことで、病気とはどういった状態なのか、人が動いていくためには、どういったことが大切なのか、そういったことが深まっていった。
指針を考えることをやめなかったからだ。
哲学とは、方針である。
オステオパシーは確実にリハビリテーションを進化させ、より良い医療を作る土台となりうる医学と感じている。
ある再生医療の研究を聞いていて驚いたことがあった。ラットは、脊損になっても動くのである。回復していくのである。
なぜ、それが人では、起らないのか?
何が自然とかけ離れさせているのか?
この疑問に取り組むことが、次の医療を開くと思っている。
オステオパシーが深めた哲学は、それを補助してくれている。
再生医療の実現を待つのではない。
リハビリテーションが再生医療を超えていけばいいのだ。
今日も見てくださり、ありがとうございます。僕はどうしても再生医療が成功するとは、思えないところがある。だからこそ、それを超えるものを作らなければ、と本気で躍起になっている。そう思ってる人他にもいるかな?
小林 克
2017年2月19日(日)
・試験
僕も所属している日本オステオパシープロフェッショナル協会には、試験がある。
ベーシック、アドバンスと試験を乗り越え、次に進めるのだ。
この協会で、僕は講師を務めるが、講師になるのも、講師になってからも試験がある。
そして、それは毎年ある。
その度に、自分の技術や方法論の精度をあげ、他とすり合わし、最終的に試験という形でチェックを受ける。
オステオパシーとは、非常に感覚的なものだ。感覚は個人によって違うものだから、合わなくても当然。という人、思っている人もいた。
しかし、そういう人は、結局自分を深めることも中途半端だ。他人と感覚を合わせることができるのは、能力が高いからだ。それだけ、深い知見と、考察があるからこそ、自分という殻だけに閉じこもらず、違う世界を見ることができる。
そういうことを、なんとなく雰囲気でめんどくさらがらず、システムとしてキチッとやっているところが当協会の最大の良さだと思う。
アメリカだって、試験はあるしね。当たり前だけど。
環境が与えてくれるもの、巡りで与えてくれるもの。そういったものをないがしろにせず、喜んで立ち向かいたい。
今日も見てくださり、ありがとうございます。どこよりも練習する場所だったから、今がある。
小林 克
2017年2月20日(月)
・場
「場」というのが、議論されることはあまりない。
「場」とは、ほとんどの場合、感じるものであるからだ。
だから、人によっては、違うように感じるし、感じない人もいるし、でも確実にそれは存在する。
だれもがケンカのときの険悪な雰囲気、その場所にいる全ての人がなにか重苦しくなるような空気感。あるいは、会話に花が咲いた食卓。その透き通った明るい空気感。感じ方は人それぞれだけど、間違いなくそのようななんとなくの共感覚は存在する。皆経験したことがあるとはずだ。
実はこの概念こそがフィールドと言われるものの基礎的なものになってくるんだけど、この場というのは、ある意味で個人も作れるものである。
例えば、演劇ではその会場を、その演劇の世界感で埋め尽くす。観客の全て、できる限りが、その場に参加してもらうよう努力する。最高に優秀なトップ俳優は、会場の立体感覚を併せ持ち、自分の放散するエネルギーを調整している。
逆に言うと、相手が作る場に入ることもできる。優秀なカウンセラーは、その空気感を感じ、自分の立ち位置、姿勢、語調、話すスタンスを瞬時に判断するものだ。
そういった「場」に最も敏感なものがある。
それが「子供」だ。
言葉で表現できないぶん、「場」でコミュニケーションをとっている。
だから、何の外傷もおこってないけど、随分と体に歪みがきているというのは、ありうることなのだ。
でも、日本というのはいいところでなんとなく感覚的に全ての人がわかるみたいだ。たぶんあのときのアレだったのかなとか、直観的にわかっていることが多い。
僕たちは見えないどこかで繋がっている。という思想が根底に根付いているからかもしれない。
今日も見てくださり、ありがとうございます。僕たちの症状が主観的なものなのであるなら、もっと「場」ということを医療でも議論されてもいいはずだ。
小林 克
2017年2月21日(火)
・僕の名は
名前というのは、大切か、大切ではないのか、それはわからないけど、僕にとっては大切なものだ。
僕の名前は「克」と書いて「マサル」と読む。
なかなかこの字で「マサル」と読むのは、珍しかったようで、「カツミ」とか「カツ」さんと大概読まれる。
「克」とは、「克己心」の「克」だ。
この字には、「己に克つ」という意味が含まれている。
たいがい、他人に勝とうとしてきた(笑)
でも、この気持ちは他人にではなく、自分に対して向けることが僕の人生ですべきことなのだと気づく。
「克つ」というのは、「勝つ」ことではない。
「克つ」というのは、「乗り越える」という意味なのだ。
そこに勝敗はない。
ただ乗り越えていくだけ。
乗り越えるということは、何かを打ち負かすということではない。
これまで、自分が勝つべきは、自分の怠惰な心と思っていた。
でも、「乗り越える」ととらえた時、そうではないことに気づいた。
「乗り越える」のは、不安や恐怖や心配、そこに留まろうとする力だ。
「怠惰」も、「怒り」も、その副反応にすぎない。
奇しくも治療家という仕事についた。
僕たちは、誰かとその不安や怖さや痛みを共有する者だ。
どんな時もまず自分が乗り越えなければならない。
僕の名は、
僕の人生のテーマだ。
今日も見てくださり、ありがとうございます。君の名は?
小林 克
2017年2月22日(水)
・すごい人がいたもんだ
僕の職業は、人と出会う職業だ。
すごいひとがいるものだと思う。
何がすごいって、普通に明るいのだ。
心配してしまうようなことは、山ほどある。
ともすれば、逆にこっちが心配になるくらいだ。
たぶん当然考えれば、心配もでてくるだろう。
でも、そういう感情に対しては、どこか他人事のようで、とりたてて前向きでもなく、後ろ向きでもなく、何か今やっている作業が一番大事なのか?さっさと動く。
その人に聞いてみた。
「気にせんことや。」
ただの楽観主義とは違う。なんとも、なんの無理もなく普通に見えるんだ。
性格かなと思っていた。
でも、それはどうやら違ったようだ。乗り越えてきたのだ。1日1日を。心配なこともあった。苦しいこともあった。そんな中で、気にしても仕方がない。なるようになる。ということを感得してきたのだ。そして、なんだかんだ言ってもたぶん大丈夫やという感覚を作り上げたのだ。
大丈夫というのは、身体感覚なんだと思った。
体で覚えるんだ。
今日1日。
今日1日を生きよう。自分らしく。
今日も見てくださり、ありがとうございます。1日1日を生きる達人になりたい。
小林 克
2017年2月23日(木)
・夢を持つという「選択」
夢をもつことがいいことか、悪いことか、それはどっちともたぶん言えない。
夢を持ち、それを目指すことで、自分の人生をより集中し、ひとが考えないことを考え、成長していく。
でも、逆に固執してしまったり、何かが見えなくなってしまうこともある。
「じゅうじつ」した日々を、送るための夢が
「じゅうじか」になってしまう。なんてこともあるかもしれない。
夢を叶えるためにどうしたらいいか、それを必死で考え、試し、チャレンジした結果、思ったのは、1日、1日を充実させていくことが必要だということだった。というのは、本質的な話だ。
最初に戻ったのだ。
でも、それは、最初とは違う。
1日、1日を、与えられていることを自覚し、チャレンジして過ごす。その毎日は、ただの1日ではなくなる。
これは過程なのだと思う。
幸せは、充実した毎日の中にある。
今夢がない人も自然とこれから「夢」とは言わないかもしれないけど、願望みたいなものをもっていくことになる。そんな中で、また行ったり来たりしながら、充実した方向へと少しずつ向かっていく。
夢を持って進んでいる人も、焦ったり、色々しながら、1日1日をより大切に生きる方向へと向かっていく。
どちらにしても、それ以外にないからだ。
夢という未来を描いても、今できることは「今」の中にしかない。「夢」を持たずになんとなく今を生きていても、それは不自然なことで、自然とより充実して、より活発に生きる方向へと向かっていく。
そして、そうやっていくうちに「夢」なんかとっくに追い越して、予想もつかないところへ行っている。
夢をもつことも素晴らしい。夢をもたないという選択だって素晴らしい。どのみち自分だけが経験できる人生だ。この道を進むしかない。
今日もみてくださり、ありがとうございます。僕は夢を追って、今も描いてます。叶うことはわかっている。1日1日を大切に生きる。僕たちは幸せになるために生まれたのだから。
小林 克
2017年2月24日(金)
・頑張っているのは一人ではない
ひどく落ち込むこともある。
上手くいかないこともある。
何のためにやってきたのだろう。
何のために生きてるのだろう。
その人生を生きる当事者は、いつだって山あり、谷ありで。
一生懸命頑張ってるのに上手くいかないこと。
見えない未来に不安で押しつぶされそうなこと。
なんで自分ばっかり。こんなに苦労をしなければ、と。
思うだろう。思ってしまうと思う。
だって、別に手を抜いて生きてきたわけではないから。自分なりに精一杯いつだってやってるし、過去を見返せばこんなにやってきたとたくさん言えることだろう。
そんな時は、一呼吸おいてまわりを、見よう。
頑張っているのは、一人ではない。
家族は常に同じ場所にいてくれて、ともに歩んでくれている。とりだって知らせているわけでもないけど、友達も、お世話になっている方たちも、ともに同じ場を生きてくれている。
頑張ってきたのは、一人ではない。
そう、少しでも思えたら、一度目を閉じてこうしよう。
苦労を積めば、いつかは幸せが来るという考えを捨てよう。
幸せは幸せを、生きるひとのところにやってくる。
今ある不安や、気負いや、責任感を一度脇に置いて、今日やることに集中しよう。
頑張っているのは、一人じゃない。
そうであるなら、もう幸せだ。
自分の生きる人生が幸せなのなら、その人を支えてくれるその場所は、幸せな場所だ。
勇気を持って、脇に置いてしまおう。不安も、心配も、焦燥感も、なにもかも。
今日もみてくださり、ありがとうございます。きっと大丈夫だ。僕たちは、大丈夫な世界を生きている。本当の勇気は、手放す勇気。
小林 克
2017年2月25日(土)
・明るくあること
人の人間関係には、一つのパワーバランスがある。
極端に明るい人のところに行くと、なぜか暗い自分が出てくる。
落ち込んでいる人をみると、いつもよりも少し明るく振る舞うようになる、など、相手とのバランスを取ろうとする。
これは、自然に起こることで、エネルギーのバランスの法則だ。
特に初対面や、会って間も無くは、この法則は顕著に表れる。しかし、ここから様々なやりとりがされるに従って、そのエネルギーのバランスは様々に変化する。
暗い自分も明るい自分も本来の自分だ。
どちらも否定されるものでもないし、この二面性は人にとって必ずあるものだ。
そのエネルギーバランスは、他人との間で明確に取り合うことになる。
このエネルギーバランスを建設的にいい状態に持って行こうとするのが、そうあろうとする心だ。
自ら心のバランスをとりながら、より良いコミュニケーションにしようとする感覚である。
学術的には、そう説明されることはないけど、僕はこういう感覚を治療的自我と呼ばれるものの、本質的な形だろうと思っている。
そういう心は、建設的に明るい。ただ明るいのではなく、サポートするように明るい。優しい明るさだ。
情報伝達が発達して、色々なコミュニケーションの技法が出回るようになった。心のこと、精神のこと、魂のことなども調べれば知れる時代になった。
でも、いつだって本当のことは、目の前で起きているものだ。ようく見ると結論は意外と単純なものだったりする。
今日もみてくださり、ありがとうございます。時代は進んでいるけど、変わらないものもたくさんあるということ。
小林 克
2017年2月26日(日)
・体にある見えない動き
よくオステオパシーは、気功ですか?と言われる。
はたから見たら、やさしく触れらて、じっとしてるように見えるからだろう。
針や気功が語るエネルギーというものがある。
つまるところ滞れば、不具合がおこるし、しっかりと流れていれば、体は健康にすごせるという、体の表面からは見えないが、確実に体には、あるはずのもの。とでも言っておこうか。
オステオパシーでも、針や気功ていう、気やエネルギーに相当するものがある。
オステオパシーでは、そういった目に見えないが体にあるはずのものを、微細な動きとして、より具体的にとらえ、探求している。
身体には、実は目に見えないほどの微細な動きが存在する。それは、ある程度科学によって証明されうるものではあるが、広くは知られていない。
動きがあるから、その動きが滞っているのがわかり、そのような場所は、身体のあるべき機能が果たせなくなり、身体全体のバランスを、崩させる要因となっていることがわかるのだ。
オステオパシーの最大の魅力はそこにあると思っている。
針や経絡などは、ある程度、経験則のデータによって、プロトコールが存在する。なになにの症状にはこの場所で、といったように。
オステオパシーでは、それはない。
まさに、今そこにある患者自身の動きの質を評価するのだ。
だから、同じ症状だからといって、同じことをするとは限らない。
たいてい同じ原因で、症状がでていることは、稀である。
そして、気功と違うのは、もちろん感じていることも違うが、臓器とか科学の言語を使っているため、具体的に説明できることだ。
目に見えないものを最も具体的に捉えようとしたのがオステオパシーでもある。
今日もみてくださり、ありがとうございます。目で見ただけではわからない、感じれるものが確実にあるのだ。
小林 克
2017年2月27日(月)
・肩こり、腰痛、花粉症の心理的側面
オステオパシーは、体をただの体としてはとらえない。
オステオパシー医学には、原理、原則がある。
これを守るものが、オステオパシーだよということだ。これが他の医学と明確に違うところで、人間というものに対して、定義を与えている。
オステオパシーの原則の一つに、
「人間は一つのユニットとしてみる。それは、肉体、心、精神のユニットである。」
というものがある。
つまり、人間をただの体としてだけみるのではなく、心理的、精神的な要因も含めて病気や体の状態を判断していくということだ。
体の状態というのは、少なからず心理的な面も関与する。体が正常な状態で常にいる人がいないのうに、心もいつも澄みきっているわけではないからだ。
例えば、書き出してみるといい。自分がきになっていると思っていることでもいいし、芯から明るくなれない理由とかでもいい。
できる限り感情的に描いたり、思いついたワードをメモするようにしていく。
そうすると自分の中でなにを問題にして生きているかが浮き彫りになることがある。
メモ帳に書いたなら、それをデリートする。そうしてみると、鼻水がなぜか止まっているということも、体にはありえることだ。
でも、それは一時的なことだ。
浮き彫りになった問題はなにも解決しないからだ。
全ての心理的な療法も、オステオパシーも本質的には、その本当の問題を解決していくための補助的なものでしかない。
その本質的な課題は人生を通して取り組むことが多い。実は体の症状もそのような本質的な道を進む、ブレーキの一つなのかもしれない。
今日も見てくださり、ありがとうございます。大丈夫、大丈夫。
小林 克
2017年2月28日(火)
・季節の移ろい
季節のうつろいを感じる季節がやってきた。
梅の花は咲き、外気は冷たさを感じるも、何か暖かさも感じる。
そして、やってくるのは、花粉だ。
僕は代々の花粉症持ちだ。
中学校くらいから花粉症の症状が出始め、就職して、2年目くらいからは、症状が爆発したのを覚えている。
鼻水が滝のようにでて、目も鼻も口も痒くなり、かくから皮膚はあれ、頭痛がした。
その時はさすがに薬を飲んだと思う。
それからオステオパシーに出会い、
年々花粉量は例年の何倍にもなっていっているにもかかわらず、症状は減っていった。
今年は人によっては、もうグズグズの状態だと思うが、今はほとんど感じない。
このままいけると思っている。
動物が、長い冬眠から目を覚まし、セッセッと働きはじめる。虫が土の中から外にでて、せっせと巣を作ったり、栄養を集めて動き回るのと同じように、これまで以上にこの季節をたのしみながら、働いていきたいと思う。
実はこれが一つのポイントになる。
木を見て、森を見なければ、全てにあてはまる本当のところは見えてこない。
今日も見てくださり、ありがとうございます。春が来たと思うと、実は今日は寒いのだけど、少し薄着になった。
小林 克