今日のフクロウさん

コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの

2017年8月1日(火)


・ ベーシックなものを積み上げる

オステオパシーの業界は、煩雑としているところがある。

日本において、法制化しているわけではないから、少しかじっただけでも、名をあげることがあったり、

整体というグレイな業界で活動するしかないというところも煩雑としてしまっているところかもしれない。

オステオパシーについて調べてみてみてると、いくつかの団体がでてくる。

小さなスタディーグループもでてくる。

考え方は人それぞれだから、学び方も変わるからかもしれない。

だけど、目指すところは一つだ。

本当にベーシックなものを積み上げた場所。そういう積み上げるしかないものに、しっかりと時間を割き続けた場所がきっと残っていくのだと思う。

今はきっと習熟期。

しっかりと誠実に積み上げよう。目の前のすべきことに集中しよう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。治療家のベーシックは人なのです。

                                    小林 克

2017年8月2日(水)


・ 成長

子どもは急に成長する。

純粋無垢だったものから、急に色をつけたかのように。

なんの色をつけていくかは、その子の個性と、その子の環境(親)との中で少しずつ育まれる。

しかし、見落とされがちなのは、親もまた成長中であるということ。

自分の個性と外部との環境の色選びは今も続いている。

きっとずっと続いていくのだ。

親もまた子どもに学び、自分に純粋無垢な色をたくさん色づけていきたい。

親もまた外からみたら、急に成長してみえるのかもしれない。

今日もみてくださり、ありがとうございます。家族はそんな成長の場の、基本単位だ。

                                    小林 克

2017年8月3日(木)


・ 誓いの言葉

「愛は寛容であり、愛は親切です。

愛は自慢せず、高慢にならないこと。

私たちは、この人生において成長し続けなければなりません。」

誓いの言葉で聞いた文で覚えているものを書いた。

久しぶりに聞いてハッとさせられるものがあった。

自慢せず、強く主張せず、寛容に相手を受け入れ、

相手を配慮して行動し、成長をともにしていく。

成長して、変わっていく。

幼さの残る二人同士が一つ屋根の下、ともにはじめての生活をしていく。

自分の幼さから勘違いしていることも、不十分なことも、うまくいかないこともあるかもしれない。

愛とは、見えないものだけど、愛とはこういうことだよ。

成長し続けるということは、愛を深めていくことでもある。

成長し続けていかねばならない。

いろんな出来事も成長への礎。常に成長して変わっていく。愛を深め続けていく。

そんなふうに言われているように感じた。生活の中に根ざされ、何世紀も人の営みに根幹を支えてきた言葉は重く感じられた。

今日もみてくださり、ありがとうございます。人は深まっていく。

                                    小林 克

2017年8月4日(金)


・ さびしさ

子供のころ、

誕生日プレゼントは、父と遊ぶこと。

と言ったことがある。

決して触れ合う時間が少なかったわけではないのだけど、そんな時間はきっとあってもあっても、欲しくなるのだ。

あったら、ない事が寂しくなるし、

なかっても、当然寂しくなるし、

ふれあいというのはそういうものなのだと思う。

今は自分が父親になって、

父の立場を経験している。

休みをとって、長くいた後は、寂しくなるみたい。

僕が仕事に出るときには、子どもは必死に我慢している顔をしている。

好きだったから、嫌いがあるし、

楽しかったから、寂しいがある。

僕たちにできることといえば、そのとき、そのときに全力を尽くすこと。

いつも楽しく、喜んで、すすんで行動していくこと。

そういう背中が生き方を照らすと信じている。

今日もみてくださり、ありがとうございます。僕の歩んだ道が子どもの一番の参照点。

                                    小林 克

2017年8月5日(土)


・ 少しの遠回り

朝、少しだけ余裕を持ってでれたのなら、

その日はまた違う形で進んでいくかもしれない。

今朝は早くにでなければいけなかったので、

少し早くでて、逆に少し遠回りをして駅に向かった。

その少しの遊びは、

たった1、2分くらいかもしれないが、いつもとは違うまわりの景色を見せてくれる。

自由な感覚を味わせてくれた。

何気なく過ごしていると、本当は自由なのに、自由を感じない。

何をやってもいいというのは、何かやらなければならないことが山積しているということでもある。

だから、ちょっとの遠回り。

ちょっとだけする無駄は、

もしかしたら本当の意味で、自分を自由にしている瞬間かも、しれない。

その充実感が、自分の脳に新たなパターンを作っていく。

今日もみてくださり、ありがとうございます。一つ一つ、自分の扱い方を、自分が学んでいく。

                                    小林 克

2017年8月6日(日)


・ 自分の時間のあり方

誰かと一緒にいるとき、

明るい自分であったり、親切な対応だったり、そんなふうに振る舞えるのは、すごいことだ。

だけど、自分一人でいるとき、

素直にいれたり、明るくいれるのは、さらにすごいことだと思う。

一人でいる時、どうすごしているかは、だれかといる時自分がどうあるかとつながっている。

普段何気ない時の行動は、自ずと自分から漏れ出るものだ。

たいしたことではないかもしれない。

一人でいる時から、

余計な心配をしないくせをつけたり、

パッと決めるように心がけたり、

物を丁寧に扱ってみたり。

自分を深める。

キツキツなりすぎず、良い状態を保つ。

そのチャレンジとアップデートを続けることが、本当の意味で保つということだと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分を深めていこう。

                                    小林 克

2017年8月7日(月)


・ 心配の反対

情報が錯綜する昨今

心配になることなんて、ひろいあげたらきりがないほどあるかもしれない。

健康のこと、

財産のこと、

生活のこと、

仕事のこと、

子育てのこと。

ネットを開けば主張が飛び交い、

これが正しい、あれが正しい、じゃあ何が正しいとなってしまうのもうなづける。

知識が史上の価値を持つ、知識社会となっている。

心配からはじまり、知識ができる。こんな構図でできている目に見えるところはわんさかだ。

心配の反対はなんだろうか?

それを「安心」とおもうから、そこに至ろうと理屈をこねることになる。

心配の反対は、

「心配しない」である。

「安心」は状態。「心配」は動作。

だから、「安心」という状態に行くためには、「心配」という動作をやめるしかない。

その先に「安心」。「心が安らかになっている」時が巡ってくる。

「心配」と「安心」は全然違うもの。

今日もみてくださり、ありがとうございます。じゃあどうやったらやめれるか?それはすでに体験している。
                                    小林 克

2017年8月8日(火)


・ 疲れ

季節の変わり目や台風などの前後、

そんな大きくガラッと環境が変わるとき、

疲れというのは、出やすい。

いつも以上に体がだるく感じられたり、

眠気に誘われたり、

あるいは、症状が重くなっているように感じられるかしれない。

そんなとき、休めたらいいのだが、そうもいかない事もある。

夏真っ盛りだ。

暑さもすごい。

そんなとき、気をつけたいのは、水分摂取だ。

体のしんどさは、変化への対応の兆し。

だからこそ弱くもある。

そんなときは、脱水も進みやすい。

疲れが溜まったと感じる時、気をつけたいもの。

それは水分摂取。

お酒で気分を晴らしてもいいけど、必ず水も飲んで下さい。(笑)

今日もみてくださり、ありがとうございます。抑えるところは、しっかり抑えて、夏を楽しむ。

                                    小林 克

2017年8月9日(水)


・ 慰めとしての、オステオパシー。

オステオパシーは何か本気で体と向きあいたい人が受けるべきものという認識があるのかもしれない。

もともと、アメリカでは医師がやっていたものだし、体の根幹を見ようとする意識は確かに強い。

だけど、僕としてはオステオパシーはもっと生活に根ざしたものと捉えてもらっても良いと感じている。

昨今、都会のマッサージ店は満席が絶えない。

それだけ、慰安を求める雰囲気が強くなってきているんだと思う。

だいたい予約制のところがオステオパシー施術院には多いから、なかなか気軽にポンと行くのは難しいかもしれないが、

今日は疲れていて、とか

最近だいぶ仕事がハードで、しんどくて、とか

そういう時には、それに応じた対応をとれるのもオステオパシーの素晴らしさだと思っている。

体のことを根幹から理解しているから、その人にあった寄り添い方ができる。これがオステオパシーの大きな魅力の一つだと思う。

健康というのは、状態であり、ものではない。

だから手に入れるという類のものではない。

ともに作って行くものだ。

状態なのだから、小さな紆余曲折の中でうまくバランスをとっているということ。それ自体の営みそのものが健康と言ってもいいかもしれない。

もちろん施術者にとって、オステオパシー施術院はそうではないと思っている人もいるだろう。

でも、僕はそうではなく、体だけでなく心も支える、その一つ一つの行程が健康を作っていると考えている。

今日もみてくださり、あったがとうございます。何を選択していくのかも、建設的な営み。

                                    小林 克

2017年8月10日(木)


・ 種を蒔くということ。

生きるということにおいて、

僕たちはきっと種をすでに持っている。

何もないところからあたらしく産み出す種はないように、

僕たちは自分に持っている種を大切に育てることが、そこから種を広げていく唯一の方法ではないだろうか?

今見えるものをまず大切にすること。

それと自分が喜べるように。

1日1日集中して、せっせっと耕す。

するとそのうち麦がとれ、

それをパンに変えることができたり、それをまた同じように大切に育てることで、

気づいたら大きな畑がひろがっている。

やがて人が集まり、協力してその畑を育てるようになる。

きっとそれが自分を豊かにしていく、本当の方法なのではなかろうか?

今日もみてくださり、ありがとうございます。ここはそんな場所にしていきたい。

                                    小林 克

2017年8月11日(金)


・バランス

僕たちは常にバランスをとっている。

自分と他人との間でもバランスをとっているし、

夢と現実の間でも、

目標と今の間でも、

右と左の間でも、

感覚と理性の間でも、

僕たちはいつもバランスをとりながら過ごしている。

でも、なにかを拍子にバランスが崩れることがある。

バランスが崩れるとは。

どちらかに寄ることだ。

何かに固執してしまったり、恐れすぎてしまったり、テンションがあがりすぎてしまったり、

どちらかに偏った時は、出来事や周りが教えてくれる。

楽しいだけは、だいたいあまりなくて、

つらいだけも、だいたいあまりない。

常に両端を見ることが、バランスをとるコツである。

今日もみてくださり、ありがとうございます。その中で自分が心地よいところ。そこが中心点だ。

                                    小林 克

2017年8月12日(土)


・笑顔

みんなが集まる。

子供たちは笑顔になる。

そろっているのがいいのだ。

みながいる。ということは、幸せなことなのである。

そんな足元の幸せをみつめること。

自分が幸せな人生を生きているかどうかは、そんな足元の幸せに気づいているかどうかかもしれない。

失ってきづくじゃ遅いから。

そうやって、度々見返しながらも、

いつもの時を、明るく過ごす。

そんなバランス感覚をもっていたい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日はそんな足元をみつめた日。

                                    小林 克

2017年8月13日(日)


・苦労というか修行かな

振り返ってみると、

苦労したなと思うこともたぶんあるのかもしれない。

でも、それをあえて苦労話にはしないのは、

会話をポジショントークにしない方法の一つかもしれない。

苦労ではなく、必要な修行だったなぁ。

と、そんな風に言えたなら素敵だ。

きっと、そうも言えると思う。

あの時の経験がなかったなら、今みたいな考えは持ててなかったなとか、

あの時の経験があったから、今この選択ができたなとか、

それは、全て自分を変化させるための習熟の期間と言えるだろう。

全てをポジティブにとらえる必要はない。

でも、あるがままに普通に捉えたい。

自分の人生も。

これまでも、これからも。

今日もみてくださり、ありがとうございます。ふりえれば、皆懐かしい思い出。

                                    小林 克

2017年8月14日(月)


・水に流すではなく、水を流す

ささくれだった心

許せない記憶。あの時、あんなことされたとか、

こんな風に言ってもらえなかったとか、

こんなに頑張ってるのにとか、

ささくれだった心。

とどまった勝手な思い。

水に流すという言葉がある、でももう水を流そう。

水を流して、送ってしまおう。

思い出すたびに水を流して次へ行こう。

循環する人生はそこからしか生まれない。

人の生は、家族での生活は、

自分の中の愛を深く、広く、なだらかにしていくことにあると思う。

愛を深く、そして広くしていくことは、許していくこと。

相手も、そして、自分も。

ふわふわと柔らかく、でもしっかりと弾力としなりがある。

心も体もそんなところを目指したい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。水を流そう。生活に、自分の人生に。

                                    小林 克

2017年8月15日(火)


・できることから少しずつ

とにかく良くなっていくためには、変化が大切だ。

ずっと休んでいても良くはなかなかならない。

でも、ずっと動き続けていた人がぱっと休むと、ああなんて休日とはいいものだと、その重要性がわかる。

自分の脳や神経は、反復でつくられるパターニングを繰り返す。

繰り返されることは、それがやりやすいようにパッとできる準備を神経はしてくれる。

これが悪く働くのが慢性疼痛だ。

そのパターンを切るために変化を作る。

変化のはじめは、体と関係のないことでもいい。

これを変えてみよう。

変えてみたいと思ってることは、山ほどあるはずだ。それらを建設的に見ていくこと。

ポイントはできることから少しずつだ。

いつも入れるサイフの位置を変えるだけでも違う。

体が良くなるから変われるのではない。

変えれるものを変え、自分の体に変化のパターニングが染み付くから、症状が変わるのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。無理はしちゃいけない。できることをちゃんとすることがポイント。
                                    小林 克

2017年8月16日(水)


・お疲れさん

今日もおつかれさん。

天候もころころ変わるし、大変だったでしょう。

夏の疲れもでるころさ。

暑くったって、やることはあるものね。

冷たいものばかり飲んでないかい?

朝にあったかいお茶でも、白湯でも飲むといい。

日々のできごとに色々気をもむことも、あったろさ。

おつかれさん。

十分やってるよ。

大丈夫。大丈夫。

今日もみてくださり、ありがとうございます。皆精一杯やっている。そう思えないのもまた、傷がそうさせている。でも、きっと癒えるから。

                                    小林 克

2017年8月17日(木)


・文章の手触り

何するにしても心はあらわれてくる。

技法は色々あっても、

それは、心に乗って花開くものだと思う。

何かを守ろうと固めたり、

うまくやって、成果をあげようと企む時、

心の中では、その反対ことへの恐れが生まれている。

そんな時の言葉はとげとげしい。

色々な情報が飛び交う中、

言葉でのコミュニケーションは、

どんどん発展していっている。

そんな時、文章を手で触るように眺めたい。

文章の手触り。

言語の中にも、非言語コミュニケーションはあると思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。結局人間力なんだろなー。
                                    小林 克

2017年8月18日(金)


・世界の縮図

幾何学をみると、さまざな形が存在し、でもその形は常に秩序と役割わ持っていることがわかる。

神聖幾何学などはまさにそうで、すべてが役割を持ち、存在する形だ。

もしも、目に見えない世界があるのなら、

それらを現実化したかのように形というものは、見える。

そうやって、この世界は、形を表し、いろいろなものの縮図として表現されている。

こうした知識を体系化していくと、いわゆるスピリチュアリズムのようなものになってくる。

これらは、僕は数学のようなものと認識している。整合性を求めているのだ。

だからこそトラウマに入り込みやすいことがある。

完全な整合性は、自分に当てはめるのはより良く働くも、それを使ってストロークを得ようとするのは、やめたほうがいい。

本当は自分が癒されたかったために、そうした知識を求めたのだ。

僕たちは神にはなれない。

そうした知識を使って、他人に干渉するのは最小限にとどめた方がよいというのが、ぼくの経験だ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。すべての人に当てはまるということは、もう無理に当てはめる必要もないということ。

                                    小林 克

2017年8月19日(土)


・ふさぎこんだらいい。

誰しも自分の闇に入り込みたくなってしまうことはある。

理由なんてなかったりする。

ただ、ボタンが掛け違ったみたいに

一つできなくなり、二つできなくなり、

もういいやなんて思ってないのに、もういいやって思ってみたり、

まだ何にもしていないのに、諦めてしまったり、

でも、そう思うのは目の前のものの大切さをしっているからだ。

知っているから怖くなる。

もし違う未来が待っていたらと不安になる。

見たくなくなる。

今のまんまでいいなんて1ミリも思ってないくせに、今のまんまが安心な気がする。

闇に帰ったらいい。

そこから光が始まっている。

次に帰る闇はまた別の場所だ。

そうやって、絶えず周りながら、僕たちは、成長していくものなのだ。

ふさぎこんだらいい。

それは悪くない。

今日もみてくださり、ありがとうございます。そこから立ち上がったなら、さっぱり忘れてしまったらいい。それがわかってればいい。

                                    小林 克

2017年8月20日(日)


・力

動脈の動き、

筋肉の力、

膜の張力、

神経の働き、

静脈の帰る動き

そういったもののすべてのバランスが命を決定づけている。

一つだけ独立しているものはなく、

それぞれが全体としても、局所としても関わりあいながら、そのバランスを保っている。

それらは単独で計測できるも、それは正確ではない。単独の働きだけで、機能を100%説明できるものはない。すべて相互作用でなりたっているからだ。

だから、それらの統括した表現をフォースとして表している。

それは時には心臓の律動となり、脈の動きになり、体液の流れとなり、調和された全体のバランスになる。

全体を知ろうとしなければ、わかることはない。

それらの調和の変化のスタートは、すべて心の中から始まっている。

だから、心の変化、それと相互に起こる体の変化を観察しなければならない。

そして、治療者として、患者の前に立った時、その背後に働く力はなんなのかを知らなければならない。

僕たちは本当は何をしているのか?

それを考えて、臨床に立つか、たたないかは大きな違いになるんだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。本当に大切なことを理解しているから、ぶれずにいることができる。オステオパシーはそんな科学だ。 

                                    小林 克

2017年8月21日(月)


・オステオパシーでなぜ良くなるか?

人の体はうまれてからこれまで、色んな出来事に耐えて生きてきてくれる。

それは、色んな衝撃から来る歪みや引きつり、動きづらさを少し他でずらし、代償していくということだ。

その衝撃には、外傷、事故などだけでなく、精神的な経験、引き継いだものなども入る。

それらは、体においては、歪みや引きつりといった膜組織によって表現されている。

腰痛が出た時、このコリが原因ですねと言われる。

それは、原因ではない。なぜそこが凝ったのか?それが重要だ。

そして、凝ってるから痛みを感じるわけではない。いわゆる筋硬結などいくらでもあるからだ。

それは結果でしかない。

それは、体がこれまでの人生の中で耐えてきた結果でしかない。

だから、オステオパシーはその歪み全体をみて、身体ができるかぎり調和していくことを目指すのだ。

ただもう一つ問題となってくるのは、施術という行為についてだ。

大きな意味で言えば、オステオパシーでしていることは、過去との調和である。

それに、他人が関わるのだ。

それは、問題を共有するだけでなく、人生の課題をその一瞬だけシェアするに近い。

だから、施術者は、自分の状態を知り、向き合い、より主体的に中立位を保ち、その場にいる必要がある。これは、毎日の取り組みだ。

この理想的な、状態とはなんなのか?

主には心の状態である。身体的なものはゆっくりしか変わらない。そして、心に引っ張られるように変わっていくのだから、やはり重要なのは心持ちである。

これを知り、取り組む人は本当に少ない。

だから良くなるのだ。日々自己を整え、全体的、包括的に人をサポートするから、過去と少しずつ調和し、本当の意味で前へ進める。

オステオパシーは人生のサポートなのだ。

しかし、技法以上に大切なのは、施術者の純情な気持ちである。

今日1日をどんな気持ちで仕事をするのか?

その時、初めて前進するためのエネルギーが、場に満ちてくる。

今日もみてくださり、ありがとうございます。オステオパシーのコンセプトが素晴らしいのではなく、それを通して得れる臨床経験から学ぶことが大切なことなのだ。
                                    小林 克

2017年8月22日(火)


・年を重ねる月日を重ねる

年をとることが楽しみになる。

そんなことが朧げながら、少しだけ予感できる年になってきた。

若年をどちらかというと恥じる性格だったため、
年を重ねた時の理想像がしっかりあったように思う。

そのため年を重ねることに、感じるのは焦燥感だった。

だけど、物事が一つまた一つ理解できるようになったことで、

そもそもその理想像自体が、トラウマからの虚像で、例えそれが実現したとしても、それは幸せであるということにつながるわけではないことがわかってきた。

理想像になれたら、幸せになれるというのは、虚像である。

周りの環境が理想の通りになっても、自分が育ってなけれは、トラウマの渦の中に入っていくだけ。

だからこそ、時を過ごすというのは、本当に大切で、それ自体が成長であり、前進だ。

月日がないと、自分は変われない。

変えたものを深めるのにも月日がいる。

だから年をとることは尊い。

年をとるたび、より精錬され、清潔に、丁寧になっていく。そう思うと楽しみだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。もうすぐ一つ年を重ねる。いい変化をつけていきたい。
                                    小林 克

2017年8月23日(水)


・仕事の基本

専門家というのは、ある分野で多くのそのフィールドにいる人たちに役に立てる人のことをいう。

自分は、そこに対して経験も考えもあって、実際に役に立つ力があるよ!それを専門家の基本にしたい。

役に立てると、

知識があるは、

=にはならない。

これも肝に命じたい。

専門家を単にその分野に詳しい方というところにおさまらないようにしたい。

役に立つことを生業とするのなら、

きっとその発言は、知識を披露することではなく、そのフィールドにいる人たちを支えるための言葉になる。

難しい言葉を使わず、

実践なき知識に振り回されず、

常に実学の探求となるはずだ。

博識であることを、自己のストローク集めに使ってはいけない。

僕はそんな実学の専門家でありたいと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。仕事とトラウマ。どうやったら役に立てるかを基準に考えたい。


                                    小林 克

2017年8月24日(木)


・今が一番幸せ

生まれてからこれまで、

たくさんの幸せをもらってきたと思う。

おっぱいをもらい、オムツを替えてもらい、

遊んでもらい、サッカーを教えてもらい、

勉強を教えてもらい、出会いをもらい

そうやって、与えてもらって、過ごした時間を通して、

「幸せなこと」を教えてもらったんだと思う。

そうやって積み重なってできている僕の今は、

当然ながら「今までで一番幸せな時間」だ。

この幸せがもっと積み重なっていく10年後は、きっと今までで一番幸せだろうし、

もっと積み重なる20年後は、さらに幸せなんだろうと思う。

今日よりも明日、明日より明後日

幸せに生きることも、幸せを見ることもうまく、精錬されている。

そんなふうに今日も生きよう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日も最高に幸せなことをしようと思う。僕の場合は働くことだ。
                                    小林 克

2017年8月25日(金)


・止まらない、止められない。

人生で一度走り出したら、

もうその船に乗るしか選択ないことなんて山ほどあるだろう。

まわりとの関係もあるだろうし、

これまでの経験もあるし、

うまくやるとか、どうかじゃなく、ただどんどん切り替えて、どんどん進める。

変化の渦の中にどっぷり浸かって、

来るもの全部食べてやるみたいな感じで、

考えすぎずどんどんやる。

そういう時って小さなことも大事で、

徹底的にやっていくことで、その時しか鍛えられない反射神経みたいなものを育てていっているんだろうな。

これも社会にでての一つの醍醐味なんじゃないかと思う。

そうやって、変化の渦にどっぷり浸かって、今度はやがて自分が変化を起こしていたりするかもしれない。

そんな力を溜め込む時。

躊躇する。だれたくなる。逃げたくなる。

考えずに手を出す勇気。それもきっといるんだろうな。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日も素直なこころで。
                                    小林 克

2017年8月26日(土)


・ただ農夫のように

雨が降っても、風が吹いても、日照りであっても、土を耕し、種を植え、育て、手を加え、工夫し、それを繰り返す。

迷いなどあるだろうか?

与えてもらった土地があり、

先祖代々守ってきたものを自分も守る。

繰り返しもほんとうに繰り返すだけではない。

常に紆余曲折の連続。

でも、それをいつも同じように行っているように、見える。




何かが起こっている時はたいてい、

そのほころびは、もっと前から見えていることも多い。

リズムのわずかな変化、

大抵は自分の心の中にある。何かに処理を失ったものが心の中を専従し、優しさや配慮や素直さから自分を遠ざけた結果だ。



彼らがいつも同じように見えるのは。自分の役割を知っているからだ。

その役割をただ丁寧にこなすことに専念をするその潔さに、見失いがちな自分を見つめる。

僕たちは舟だ。

人それぞれ精神的な難しさをそれぞれ持って、それぞれにしか進めない航路を歩んでいる。

自分と他人を受け入れながら、自分という役割を果たす。

トラウマはいつしか。航路においていっている。

自分の役割は、きっとすでに自覚している。それは自分にしかできないこと。忘れてはいけない。
進むことを、繰り返そう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。目の前に集中する。役割が大きくなっていけば、さらに精錬された対応を要求されるようになる。

                                    小林 克

2017年8月27日(日)


・プライドが1mmもないように。

若いころ、

プライドの塊のような自分がいた。

ただただいい格好をしたい。

正しいことを発言し、正しいと思うことを行い、格好をつけた。

社会にでて、プライドはあっという間に折り曲げられた。

自分にできること、積立てたものは、大したことなかったことを知り、そこからまた積立てはじめた。

独立して、さらにそのプライドは粉々に砕け散った。

本当に人のことを考えたら、治療のことを考えたなら、そこから積立てたものも、大切だったが、誰かの上に立とうという欲そのものが問題だったことがわかった。

ストロークを欲していたのだ。

技術もまた、それを得るための手段になってしまうのが人の世の怖さだ。

そこから離れて、はじめて本当の仕事ができる。自分の人生が進み始める。

今吉本隆明さんの「その場にいる、誰より低くありなさい。」

という言葉が頭をよぎる。

素直であることを年を追うごとに、極めていきたい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。行動で重ねてたい。

                                    小林 克

2017年8月28日(月)


・休むこと

休むことも大切だ。

わかってはいるけど、独身の時は、休もうとは思えなかった。

家族ができて、初めて休むことも自分の一部であることが体に、染み付いてきている。

僕の体は家族を乗せる船であり、

僕の時間は家族と触れ合える時間であり、

隙間なくそうやって、何かをして、そして、

何かを求められて生きている感覚がとても心地いい。

責任を担うということは、何かと触れ合うということでもある。

自分の人生に含めて生きることとも言えるかもしれない。

そうやって、自分が自分のものではなくなっていくのは、

生まれたことに意味をなすことであり、

それそのものが意味であり、

忘れていたけど、最初からそうだったことを思い出すことでもある。

豊かに生きるというのは、自分の意識がそうやって広がっていくこと。

だからこそ内面を大切にしたい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。働いていても、休んでいても、それは場所が違うだけで、意識のレベルは一緒。

                                    小林 克

2017年8月29日(火)


・フォース

遅まきながら、スターウォーズ フォースの覚醒

を見た。

スターウォーズの世界観は興味深い。

戦争が終わり、世界は大きな考察にあの時入ったように思う。

善と悪とは何か?

自然と私たちは本当はどんな関係なのか?

争うということ。

愛とは何か?

社会と個人とは?

そんな考察に多くの人が駆り立てられた時代だったのではないかなと思う。

スターウォーズの世界観でいったら、フォースを善と悪で分けているのが面白い。

人に当たり前に流れている力は、両方に使えるのだ。

それは、再生への力と、破滅への衝動である。

そして、二つの極の中で振り子のようにバランスしている。

それは僕たちの意識の中でもある。

だけど、基本的に悪に陥るのには、みなそれぞれ理由があって、みんな昔はいい人だったという感じで描かれているのは、人間らしい。

最終的に戦いで終結するのは時代だと思う。

本当は違う。

再生への力はそもそも破壊と無縁だ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。間に受けず、自ら考えること。それがいまの時代のリテラシー。
                                    小林 克

2017年8月30日(水)


・見えないものを信じる。

僕たちはいつだって揺らいでいる。

愛に渇望し、

信頼を求め、

どこか感じるなんとなくの不安の中で生きている。

なんとなく整理ができず、

見えてるものを判断し、

理屈を唱え、

正当化しようと、試みる。

本当は、そんなことしたくないのに。

見えないところを信じてみないか?

一見見える、その嫌いという表現は、好きでやってるわけではない。

好きであることを表現しつづけることは至難だ。

逆に嫌いに見せるからこそ、それは、好きでいているというメッセージでもある。

表現できないところをみてあげよう。

本当の気持ちを汲んでやろう。

それは見えないもので、よくよく見ないと表現しているのがわからない。

でも、自分に帰ればわかるはず。

僕たちはしたくもないことをしようとする。

破滅に向かう振りをする。

そんなややこしい自分の奥の優しさを自分だけは信じてあげよう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。これな本当の強さ。
                                    小林 克

2017年8月31日(木)


・繰り返し見る。

繰り返しふれるということは大切なことだ。

色んな作用がある。

たくさんふれることは、親近感をわかせることにもなるし、

強く自分に定着させることにもなる。

繰り返し行うことは、自分の脳に一定のパターンを定着させ、定着したパターンは自分のパターンとなる。それは、自分と親和性が高いということでもある。

携帯の待ち受けを目指したいものが具体的にわかるものにしたアイデアはなかなかよかった。

繰り返し目にふれるから、

定着度が高い。

おっくうに思うことが自然と少なくなった。

こういうアイデアは自分を進めてくれる。

今日もみてくださり、ありがとうございます。いいなと思ったらなんでもやってみよう。

                                    小林 克