今日のフクロウさん

コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの


11月からはじめたこのブログも無事一か月経ちました。一つ一つの言葉を、自分のまわりの空間から

ひろいあげるようにつづる。そんな毎日。

ぜひ読んでみてください。

 

 

 


 

2016111()

 

・「人生とは体験だ」この言葉に出会ったのが今につながっている。

 エッセイという言葉を調べてみると、

 

自分のユニークな体験を題材にして、きわめて私的な生活描写の中から自分自身の感情や思想を紡ぎ出すこと。体験そのものが魅力的で、読み手の好奇心をくすぐることができれば理想的です。

 

と、出てきた。読み手の好奇心をくすぐるほどの文章は自分には期待できないけど、「自分の体験を通して〜」というのが、気にいった。

 

僕は、「誰かの体験や、誰かの考えたことは、どこかの知らない誰かの参考になる」と信じている。

 

人生を生きることは、どこか不安定だ。

 

そして、変化のきっかけは、人それぞれで、予期せぬもので、一見つながってないように見えるがつながっていることが多い。

 

僕の考えたことも、誰かのためになるかもしれない。

 

そう思うと心が踊った。これは、自分のためでもある。少し、これまでよりも日々を注意深く生きれる気がする。

 

今日を、見てくださりありがとうございます。みんなそれぞれの人生を歩んでる。そして、確かに今という時を共に歩んでる。

 

                                          小林克

 


2016112()

 

・毎朝体操をすることを日課としている。内容は、僕の施術院に来たことがある方はだいたいの人が一度は聞いたことがあると思う。誰でも知ることのできるものでもある。フルフォード博士というアメリカのオステオパシー医師の著書「いのちの輝き」という本に載っているものだからだ。

 

 この体操はフルフォードとその友人でありオステオパシー医師であるコス博士によってつくられた。僕は、コス博士からこの体操を教えてもらい、それ以来毎日続けることに決めている。

 

フルフォード博士もコス博士も患者と医療に対して本当に誠実な方たちだった。既存の知識だけでなく、それらを鵜呑みにせず、それらに作用している本当の力は何かを探求した。結果、彼らが注目することになったのは、目には見えてないけど、確かにそこにあるはずの力だった。私たちは傷を保護するだけでふさいでくれる。感染して熱が上がっても熱はやがて下がっていく。その背景に何があるのか?それを実践と科学によって求めようとした。

 

この体操は、ただ筋肉を伸ばすことを目的とはしていない。その本懐は、先ほど言った目には見えないけど確かにある力にアプローチすることにある。

 

この体操の細かな説明は、書籍をぜひ見てください。

 

僕自身毎日続けることで多くわかることがあった。

 

 

・毎日同じように行おうとしても、毎日違うこと。

 

・それでも、毎日続けることで、何かが変わっていることが感じられること。

 

 

 

僕たちはいつもと同じような関係で、同じようなことをしているように見えるが実はそうではない。常に変化の中を生きている。良きにしろ、悪きにしろその変化に気づくのもまた成長なのかもしれない。

 

今日も見ていただきありがとうございます。言葉ではわかっても、実際に経験してみないとわからないことは多い。毎日続けることを大切にしたいと思った。

 

                                          小林克

 


2016113()

 

・はじめの一歩

 

見えない未来は怖いものだ。みんな何らかの不安を味わい、ややこしい自分と付き合いながら生きている。そうやって自分の中にある根本的な何かと向き合っている。


 

原因と誘因という言葉がある。
 

 

今、不安を喚起されるような出来事は多くの場合誘因だと考えている。不安の根本的なものは、もっと以前に形成されているのだ。

 

だから僕たちは、そういった出来事を通して、もはや自分の一部ともなっている不安という感情と向き合っている。

 

そして、そういう経験を通して、また一つ不安という感情を受け入れ、進んでいくのである。不安という感情を受け入れることは自分を受け入れることでもある。そして、それはこれまでの人生や自分の生きている世界を受け入れることともいえる。そうやって僕たちは世界とつながっている。

 

 

そう、言ってもいいんじゃないかと思う。

 

 

僕のやり方として、自分の中でどうしようもない感情にかられたとき、紙に書き出すということをすることがある。思いのまま、書きなぐるように書き出していくと、まるで思いもよらなかった自分の本当の気持ちや過去の記憶に到着することがある。そうやって本当の自分の姿を自分が少しだけ認識することで、僕の不安は少し小さくなるようだ。

 

ちなみに必ずしもその感情に向き合う必要もないこともある。ただの堂々巡りになることだって多い。そんなとき思うものだ。


 

ああ自分ってめんどくさい。

 

 

今日も見てくださりありがとうございます。みんな自分にしか生きれない道を歩いてる。でも、周りを見ていると色々に似た生き方や感情を味わっているのを見るのも確かなことだ。そう、自分の道を歩いているのは確かだが、みんなと共に歩いているのだ。

 

 

                                          小林 克

 


2016114()

 

・今朝は3時から起きている。朝早く起きるのは、僕は得意な方だと思う。何をしていたかというとホームページの手直しをしたりもろもろなのだが、作業というのはやってもやっても、次々にこうしたい、ああしたいが出てきて終わりがないものだ。

 

なぜ朝起きが得意かというと、さかのぼれば高校時代になる。部活動をしていた僕は、部活が終わってご飯を食べて、それから宿題をするというのが、もう眠くて苦痛だっため、先に寝てしまうことにした。それで、朝4時か5時に起きて終わらせるという生活を予備校時代も含めたら3年間ほどしていただろうか。部活の調子があまり良くなかったため、何とか自分を変えたいという一大決心でもあった。


習慣とはすごいもので、それから大学、社会人と寝る時間も遅くなったこともあって、朝そんなに早く起きることはなくなったが、今も仕事に追われると結局先に寝てしまって、朝していることが多い。起きようと思えば起きれるようだ。

 

言いたかったのは朝起きの話ではなくて、習慣というものの力だ。一度真剣に続けると、やがてそれは神経系に記憶され、ある程度月日が経ってもまた再開するのは容易だったりする。

 

僕は、神経系の最も主要な機能は覚えることだと思っている。人はいいことも悪いことも、けっこう簡単に覚えてしまったりするものだ。大抵、簡単に覚えれるのは悪い習慣の方なんだけど。


 

この機能を建設的に使えることは、色々な意味で大切なことだと思う。

 

 

今日も見てくださりありがとうございます。自分を変えるということも、また習慣のなせるものだということに気づく。変化し続けようとすることも、また神経系は記憶するのではないか。
 

 

                                            小林 克

 

 

 


 

2016115()

 

 

・人は人から学ぶことが多いもんだと思っている。ふとした言葉、ふとした行動、あるいは、誰かの生きる姿そのものが、自分の何かを揺り動かし、勇気をもらったり、大きな変化のきっかけになることはけっこうある話だと思う。

 

 

 

僕もこれまで数えきれないほど多くのひとの影響を受けてきた。

 

 

 

自分の父母をはじめ、僕が師事してきた先生たちは、背中で語ってくれる人が多かった気がする。彼らの生き方そのものが、僕に勇気を与えてくれた。彼らの言葉のないふるまいこそが、その奥にある人間性の深さを感じさせてくれていた。

 

 

 

患者さんもそうだ。僕の方が、助けになるべき立場なのかもしれないが、彼らが今の状況、状態に立ち向かう姿が、身体から感じ取れるそのエネルギーが、落ち込む僕を勇気づけ、新たな学びを促してくれたことは、本当にいつものことといえるほどである。

 

 

 

妻や弟たちもそうだ。彼らの感性や生き方は身近だからこそ、最も影響を受けてきたものであり、僕が学ばなければいけないところだと思う。

 

 

 

こどももそうだろう。まだまだ、小さいけど、こどもには助けられてばかりだ。こどもが見せてくれる自由な振る舞いや、優しさが本来の自分を思い出させてくれる。

 

 

 

つくづく恵まれて育ってきたと思う。

 

 

 

しかも今も僕を育ててくれている人たちと身近にいれるのだから、こんなに頼もしいことはない。

 

 

 

「学びの人生」とはよくいったもので、ちゃんと見ようとすることで、人生は学びで満ち溢れていることに気づいた。

 

 

 

今日も見ていただきありがとうございます。明石家さんまの言葉「人生生きてるだけで丸もうけ」は大好きな言葉の一つ。

 

 

 

                                           小林 克

 

          

 

 

 


2016年11月6日(日)


・弟が歌を歌っているからか、芸人やアーティストから学びを得ることが多い。弟から教えてもらい、どハマりしてしまった芸人に「小林賢太郎」がいる。

「小林賢太郎」というとわからない人も多いかもしれない。「ラーメンズ」というとわかってくれるかなぁ。最近相方の片桐さんが良くテレビでドラマにでていた。

ハマってしまった結果、「小林賢太郎」というワードと、「ラーメンズ」というワードでyoutubeにでてくる動画を夜な夜な見ていた時がある。

なぜハマってしまったのかというと、その芸風や芸の巧妙さもさることながら、おそらく生き方やチャレンジ精神に惹かれたのだと思う。

「小林賢太郎」の芸は、非常に多彩だ。コントの中には、手品、ラップ、パントマイム、言葉遊び、演劇、美術と色々なものが入ってくる。

それは、彼がこれまで手品師になろうとしたり、芸大を出ていたり、劇場でのコントを大事にしたり、そうやって生きてきた全てが結実して、いまの芸をつくっているということだ。

そして、本人自身も他人の領域は他人の領域。自分にしかできないものをと、仕事のやり方も、芸の突き詰め方もとことん自分を掘り下げていった。だからこそ、ほかの誰でもない「小林賢太郎」の芸が今完全に出来上がっている。

これは、オステオパシーという技術にも言えることで、僕の技術は本質的には僕の臨床経験と、その中で僕が試行錯誤し続けた経験があってこそ、成り立つものだ。

僕は、そうやってなんとかして自分の道を生きようとしている人が気になるようだ。

小林賢太郎は孤独だったと思う。色々周りからも言われたようだし、それでも自分を信じて突き進んできたのだ。

きっと僕も同じような気持ちだからだろう。

今にないものを、今にない役割を果たしたいと思って、今日も生きている。

今日も見てくださりありがとうございます。今日はセミナーをしに小倉にきたよ。

                                           小林 克
          

2016年11月7日(月)


・昨日は小倉でオステオパシーのセミナーをしてきた。僕が主に担当している講義は、だいたい5〜6月と11〜12月に集中するので、今回は久々な感じがしていた。今回をかわぎりに年末まで全国をあちらこちらとまわることになる。

教えるということ、伝えるということにはいつも頭を使う。僕は毎回同じ内容の講義をするのでも、今何を伝えるかを前日に考える。だいたい前日は夜遅くまで講義ノートとにらめっこするので、出張をちょっと楽しめるようになってきたのは最近のことだ。

色々と大変な作業をこなすが、教えるということは僕にとって本当に尊いことだと思う。同じ講義でも毎回毎回が新鮮だし、講義を終えたあとは何かが自分の中で変わってることが多い。

それでも毎回難しさを感じ、帰りの電車ではうーんと思索にふけるんだけど。

日本でオステオパシーの認知度は低い。世界では先進国を中心に当たり前にあるのに、アジア、日本ではまだまだだ。そのくせ、やることはたまらなく難しい。もともとは、ドクターがやっていたものだから当然のことだろう。なんとかその差を埋めようと毎回奮闘するのも当然だ。

認知度が低く、なおかつ難しいのだから、受講生には大変な努力を要求していることだと思う。

だれもその努力は評価してくれないだろうし。職場で一人だけ違うことをやってたりすると、白い目で見られるかもこともあるかもしれない。

僕たちが認められ、知られるためには結果しかない。今までとは違う結果や、感触を感じ始めた時、はじめて自分を見てもらえるのだ。

僕はそんなとき、創始者のスティルを思い出す。彼は、悪魔とか、気狂いといわれながらも自分がえた真理を信じ続けた。その不断の努力が、結果世界に広まっている今の現状となっている。

「患者さんを今よりもよりよく」

誰に言われるわけでもなく、勝手に自分を追い込んで、限りなく純粋に、限りなく集中し日々の臨床に向かう。

でも、たぶん本当はそうしたかったんじゃないかな?

今日も見ていただきありがとうございます。限りなく純粋に。それはすべての療法を学ぶ人たちに共通のこと。その気持ちに向き合うから、臨床家として今日を生きる。
                                           小林 克
          

2016年11月8日(火)


・父から口を酸っぱくして言われていることがある。

「母校や先輩や後輩との関係を大切にしなさい」

社会人にあがったばかりの頃。そうだね、といいつつあまり僕はこの意味がわかっていなかった。

僕は小学校を4度変わっている。中学から高校に上がる時も岩手県の中学から大阪の高校に入学するため飛行機で高校入試を受けに行った。大学は広島に行ったから、出身はどこですか?と言われるとどこかあまりわからない。

そんな風に育ったこともあって、環境が変わることに慣れているのかもしれない。その分、もしかしたら関係を続けることに不慣れなのかもしれない。

父の言葉を理解し始めたのは、独立してからだったように思う。

僕の中にある誰かとの関係性は、僕の過去にあるものだけだ。そして、新しく出会う人たちもほとんどの場合、僕と過去に関わってくれた人たちが引き寄せてくれたものなのだ。

僕の過去と未来はつながっている。

こんな僕に今もつながっていてくれる、そしてそのつながりは消そうと思っても消えることはない。

なになに高校出身、なになに大学出身、どこそこの病院出身。その全ての過程がいまの僕につながり、未来の僕につながっている。

母校や先輩や後輩には感謝しかない。

改めてそう思った。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分のいた病院の先輩、後輩たちには特に今も支えてもらっています。感謝しかありません。そして、いつか何かしらの形で恩返ししていきたいといつも思っています。病院の土地を踏むと今も昔と変わらない空気感が漂っているのを感じます。それがどんなにありがたいことか。
改めて決意を固めた経験でした。

                                           小林 克
          

2016年11月9日(水)


・ある時期自分を救ってくれていた方法がある。

セルフアイデンティティスルー ホ・オポノポノ

というものだ。

これは、ハワイの伝統的な問題解決法を個人に応用した方法である。詳しくは、関連書籍などを手にとってみてもらえたらと思う。

自分の外で起こっている出来事は、自分の中にある何かともなんらかの関わりがあり、それを解決することで、ものごとのあるべき解決へ促すといったものだ。

方法は色々あるのかもしれないが、根幹の方法は非常にシンプルである。

ありがとう
ごめんなさい
ゆるしてください
愛しています

この四つの言葉を自分の中で唱えるだけだ。この四つは思いつく順番でもいい。(僕の認識がまちがってなければm(__)m)

非常にスピリチュアルな認識を含むものだが、自分の中で効果を感じ、実践していた時期がある。この背景にある理論は、僕の人間に対して、あるいはこの世界に対しての見識を広めるのに役にたった。

自分にとって、にっちもさっちも行かない状況に立たされた時、どうしても変えたい何かがある時

たぶん人はなんでもすると思う。

この方法を試した時、僕は言葉の力のすごさを感じた。

日本には言霊という考え方がある。言葉というのもまた物理的な力であり、エネルギーだ。

どうしても変えたい何かがある時、

とりあえず実行するのは大切なことかもしれない。

解釈や疑念は後からでもできるから。

今日も、みてくださりありがとうございます。いつも拙い文章でごめんなさい。ゆるしてね。愛しています。

少し気持ちが軽くなった^_^


                                           小林 克
          

2016年11月10日(木)


・人の二面性と世界の二極性

人は一つの言葉ではあらわせない。

こんな側面もあれば、あんな側面もあるのが人間だ。

そんな人が集まってできている世界は、

当然ながら色んな心理のドットが散らばって、遠くからみるとまるで二極性をもっているように見えるかもしれない。

それはどこか振り子のようで、

あちらにふれれば、こちらに帰り

こちらにふれれば、あちらに帰り

そうやって僕たちは大きいにしろ小さいにしろ、まるでさわさわと波立つ海の中を生きているようだ。

あちらにゆれて、こちらにゆれて

そうやって僕たちが乗っている波は、実は自分の中にあって、同じではないにしろ、似たような旋律を描く。

そんな風にみてみると、少し面白い気がした。

今日も見てくださりありがとうございます。僕たちが生きる波は、きっと自分でもたてることができるんじゃないかと思う。
                                              小林 克
          

2016年11月11日(金)


・言の葉の力

はじめて、講師を任された時、師から言われたことがある。

「必ず自分の言葉で話しなさい」

言葉には力がやどる。他人の言葉は借り物。自分の経験からくる言葉を伝えろ。

それから先は、上手に講義を説明する練習ではなく、

講義の内容を自分の言葉にするための作業に没頭することとなった。

自分の言葉というのは、言ってみるのとやってみるのは別次元で、自分の経験や、施術への理論。考察、それらのすべての背景が自分の言葉をつくる。

はじめて患者さんをもつ療法士がいう、「きっと良くなりますよ。」という言葉と、何千人と見てきた療法士の「きっと良くなりますよ。」の重みが違うのは、当然のことだ。

では、はじめての人間は、全然経験豊かな人間に、劣るものばかりなのかとなる。でも、それは違うとずっと思ってきた。

はじめての人間には、はじめての人間にしか持ち得ない情熱があり、その情熱の理由となるべく経験が、記憶のすぐそばにある。その療法士にとっては、はじめての一人は、生涯の一人でもある。

そういった想いの一つ一つが言葉にやどり、施術にやどると思っている。

だから、差がないというのは厳密には言えないが、大きな差ではないと考えている。情熱があるのなら。

だからこそ、一人一人の診療に、一つ一つ想いも技術も重ねるように、丁寧にみていく。

今の僕の言葉はどんな言葉になっているだろうか。

今日もみてくださりありがとうございます。ただいま新大阪。アップルパイかな?甘い匂いに誘われてます。


                                              小林 克
          

2016年11月12日(土)


・お願いとお礼

僕たちはたいてい何かをお願いしたら、そのあとお礼の言葉をいう。人付き合いでは、だいたいみんなそうではないかなと思う。

でも、神仏に対してはどうかと言われるとお願いしっぱなしのことが多い。

3年前、ちょうど式年遷宮の時である。そのような時期でもあり、ちょうどお腹の中に一人目の子供がいたこともあって、はじめて伊勢神宮に行くこととなった。マタニティ旅行というやつだ。

その時、無事の出産を祈ったのだった。

旅行も楽しく終え、また行きたいねと言っていた。

それからあっという間に3年経ってしまった。お礼参りに行こう行こうと思って、3年。はじめての子育て、引越しと今思い起こせばてんやわんやだった。

ようやく段取りがつき、ついに行けることとなった。久々の家族旅行でもある。前回行ったところを今回もほとんど同じように順ぐりまわる。

でも、今回は生まれた子供と一緒だ。覚えているかな?笑

さあ、感謝を伝えに行こう。

今日も見てくださり、ありがとうございます。久々の車の運転にちよっとひびってます。一つ一つを気をつけて。

                                              小林 克
          

2016年11月12日(土)


・お願いとお礼

僕たちはたいてい何かをお願いしたら、そのあとお礼の言葉をいう。人付き合いでは、だいたいみんなそうではないかなと思う。

でも、神仏に対してはどうかと言われるとお願いしっぱなしのことが多い。

3年前、ちょうど式年遷宮の時である。そのような時期でもあり、ちょうどお腹の中に一人目の子供がいたこともあって、はじめて伊勢神宮に行くこととなった。マタニティ旅行というやつだ。

その時、無事の出産を祈ったのだった。

旅行も楽しく終え、また行きたいねと言っていた。

それからあっという間に3年経ってしまった。お礼参りに行こう行こうと思って、3年。はじめての子育て、引越しと今思い起こせばてんやわんやだった。

ようやく段取りがつき、ついに行けることとなった。久々の家族旅行でもある。前回行ったところを今回もほとんど同じように順ぐりまわる。

でも、今回は生まれた子供と一緒だ。覚えているかな?笑

さあ、感謝を伝えに行こう。

今日も見てくださり、ありがとうございます。久々の車の運転にちよっとひびってます。一つ一つを気をつけて。

                                              小林 克
          

2016年11月13日(日)


・仕事と遊び

「仕事も、遊びも100%!」

そんな言葉を目にすることがある。

僕は幼少期サッカーをずっとやっていた。それなりに真剣な気持ちでやっていたので、子供ながらこれは自分の中では、「遊び」ではなかったようで。

そんな背景もあって、どうやら「遊び」というイメージに、「真剣ではない何か真剣に打ち込んでるもの以外のもの」という、偏見ができてしまっていたようだ。

中学校のころ、遊ぶというイメージは、かけっこをしたり、かくれんぼをしたりとそんなイメージしか思い浮かばなかったのを覚えている。自分の中で何か決意があって、サッカーで夢を目指したことで、少し早く大人になろうとしすぎたようだ。自分の中の、遊ぶ生活は、小学校低学年あたりでとまってしまっていたようである。

だから、「仕事も遊びも100%」

という言葉は、何か自分にとって違和感とともに憧れを抱く言葉でもある気がする。

100%の遊びを考えてみた

・しっかりと、計画をたてる
・一つ一つクリーニング
・道すがらに想いをはせる
・トラブルも、イベントのひとつ
・計画通りいかないのもイベントのひとつ
・テンション高い

こんなこと考えている時点で、カッチカッチやな!

と、思った(笑)

でも、こうやってみてみると遊びの100%と、仕事の100%も大きくは変わらなそうだ。

そりゃそうだ、真剣にやる方法なんて、そんなに多くない。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分が思っていた以上に、自分を掘り下げる結果となって驚いている。小さなころの小さな決意の記憶が蘇ってきた。
                                              小林 克
          

2016年11月14日(月)


・ぼくは、子供に勇気づけられることが多くある。

子供は欲求に素直だ。

食べたいものは、あれもこれも全部自分のだと主張する。

遊びに夢中になれば、そこから離れるのは容易ではない。

確かにそうだよな〜。人間ってもともとはこうだったよなー。と思うのだ。

そうかと思えば、特に何かこちらがしたわけでもなく、どこかで思いなおしたのか、突然シェアしだしたり、

興味が次に移ると、今度はそっちに集中しはじめる。

とにかく、自然で、全力だ。

今のこの時だけを生きている。

時折、明らかに生まれる前の僕たち(夫婦)を

どこか、空とか、別のところでみていたんじゃないかという行動をとることがある。

教えた記憶もない。

世の中は、僕たちの知っていることだけでは、ないのかもしれない。

でも、その存在を、そんなこともあるよねと認めてしまうと、そのほかのものも繋がっていくことは、多くあるだろう。

今日もみていただき、ありがとうございます。寝静まったその顔に、力をもらう。


                                              小林 克
          

2016年11月15日(火)


・取り組み方のひとそれぞれ

物事への取り組み方というのは、一通りではない。

それぞれの性格や、習慣、好き嫌いが反映し、ひとそれぞれの取り組み方があるものだ。

例えば車の運転一つにとっても性格や好き嫌いは反映するし、その一長一短はある。

スピード出すのが苦手なひとは、渋滞になっても特に動揺することなくマイペースに進めるかもしれない。

渋滞が苦手だというひとは、逆に流れているときは調子良くて、予定よりも早く到着できたなんてことも。

うさぎと、亀の話ではないけど、

自分にあった物事の取り組み方を知っておくのは、強みとなる気がする。

何かお仕事を決めるとき、得意なやり方が生きるほうがやはり持続力はあるだろうし、

それは同時にあまり自分もつらくないということでもある。

まぁその方法を知るまでに、結構試行錯誤はするのだろうけど。

色々な失敗と思える作業も自分を知る一部なのだ。

そしてそれは必要なことなのかもしれない。

今日もみてくださり、ありがとうございます。そうやって繰り返し試行錯誤していくうちに、両方できるようになってたなんてこともあるかもしれない。


                                              小林 克
          

2016年11月16日(水)


・宮崎駿の言葉

昨日の深夜、たまたまテレビをつけるとこんなのがやっていた。

「終わらない人、宮崎駿」

ジブリ好きとしてはどうしても目がひかれ、寝るつもりが最後まで見てしまったのだが、心に残る言葉があった。

「世界は美しいってことを伝えたいんだ。」

ああ、そうか。

「みんな気づかないけど、世界は美しいってことを伝えたいんだよ。」

ああ、そうだよね。僕も同じだ。

オステオパシーというものを通して伝えたいものがあるとしたら、それはこういうことだと思う。

僕の手の下で感じられる生命力は

どんな状態でも、すべからく美しい。

病に倒れたときも、死の直前でも、

そこに変わらずあるものは、  あるんだ。

宮崎駿が描く世界は、まるで生命力そのものだった。かれの手から発せられる生命力が、彼の信念が、その絵にやどるかのように。



そして、こんなことも言っていた。

「何にもしないで、死ぬより、死んではならないって、死ぬ方がずっとマシなんだよ」

そこには背中で語るカッコいい大人がいた。
かれは今もチャレンジしている。

終わらない人、宮崎駿。

今日もみてくださり、ありがとうございます。その裏でBSでやってた、糸井重里のドキャメンタリーも、よかったなぁ。久々にテレビにかじりついた午前1時。
                                              小林 克
          

2016年11月17日(木)


・アーティストから学ぶ世界の空気

意外と若いミュージシャンの曲を熱心に聞くことがある。

聞くと感心に近い気持ちになるのだ。

うわーこんな言葉使うのかとか

こんな風に表現するのかとか

アーティストたちの必死な思いを感じ

面白みと勇気をもらう。

僕が思うに、情報過多の時代、表現も飽和してきているのもあって、とにかく自分にしかできない、他に誰もやってない、言ってないものを作ろうという意志が今はある気がする。

そうやって向き合っているのは、この世界や世間ではなく、実は彼ら自身の内面との対話であり、本当の気持ちであり、ある部分そういった気持ちと向き合った結果、タブーとされる言葉を超えたり、他にはない表現となっているような気がするんだ。

そして、それは僕たちも同時に思っていたことでもあり、直面していた問題でもあり、そこに共感が生まれるんだろう。

そんな時代の空気感。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分がおもしろいなと思ったアーティストや芸人が、自分より若いときには、ちょっとショックを受ける。
                                              小林 克
          

2016年11月18日(金)


・ちょっとまだ早いんだけど、ふと思いついてしまったから書いている。ほぼ毎日という記載通り
ちょっと適当だ。

オステオパシーでは、よく三位一体ということが言われる。これは端的にいうと、魂と精神と肉体が良いバランスであることが健康だよということ。(と僕は思ってる)
ただこの良いバランスというのが、いまいち不明瞭だった。

そんなことをブラブラ思いながら歩いているとふと思いついたので書いている。

魂というのを、仮に自分の歩んだ道、そしてこれから歩むべき道と定義する。
精神は心。身体は体。

これにプラスとマイナスを付け加えて見る。

魂のプラスは進むべき道のり、自分も望み、歩もうとしている道といってもいい。
マイナスは、そんな前向きではない側面とする。例えば、やらなければならないことや、やりたいわけではないけど、必要なこととか。
プラスが夢でマイナスがライスワークとしてもいい。

心のプラスは、プラスのイメージできる感情や思考、マイナスは不安や恐怖に代表されるややマイナスな感情や思考。

肉体のプラスは安静な状態。マイナスは負荷がかかった状態。これは逆でもいい。

例えばこうすると良い状態というのは、中庸だ。

自分が歩んでいる道は現実と理想が噛み合っている状態。そこを歩んでいるのがバランス良い。

心も不安すぎず、でもイケイケになりすぎもせず、冷静と情熱の間。不安と高揚感の間。そんな状態。きっと、そんな状態なら、リスクもしっかりとり、前向きに理想を追える。

肉体は、過負荷な状態はやはり問題だし、自分の能力を十分に発揮できていないのもやはりバランスが良いとは言えないかもしれない。

理想に傾きすぎた生き方をしていれば、だんだんと過負荷な状態ができあがって、やがて心の中庸を失うかもしれない。

あるいは過去のトラウマから不安が拭えず、理想や生きる目的なんて考えることもできず、自分の本来ある素晴らしい能力が不完全燃焼してしまうかもしれない。

あまりのハードワークに心もバランスを崩し、理想とした生き方は遠のくかもしれない。

何もしなければ停滞するし、何かに急ぎすぎてもオーバーアウトする。

魂(自分の生きる道)も精神(心)も肉体(からだ)もそれぞれバランスがあり、相互に関係しあっている。それぞれがそれぞれに良いバランスを保ち、欠けることなく満ちている。

そんなことを唐突に思いついた。

これはただの雑感だ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。こんなことを聞いた。「やっぱり、ちゃんと食って、ちゃんと風呂入って、ちゃんと寝てるやつには敵わない。」

バランスだ。


                                              小林 克
          

2016年11月19日(土)


・想いと想いの追いかけっこ

人間みんな同じ時間を生きている

というのは、合ってるようで合ってない。そんなことを感じることがある。

頭の中で考えていることに、時間はない。

明日を思うひと。過去に生きるひと。その時々が違ったり。

僕が昨日思ってたことをだれかが明日思ってたり。誰かが昨日思ってたことを僕が今日思っていたり。

気持ちが伝わってない。

それをいま決めつけるというのは、どうやら時期尚早のことのようだ。

その気持ちは、随分前に伝わっていたのかもしれない。もう通りすぎてたのかもしれない。
あるいは、後からじわじわと伝わっていくとのなのかもしれない。

それぞれ違う時間の流れを生きるぼくらは、フワフワ、フワフワ色んな流れが混じる海のよう。フワフワ小舟に乗って、流れにのって、何度も何度も交差する。

今日もみてくださり、ありがとうございます。ずっと前から気持ちが伝わっていた。気づいていないだけだった。僕はこの人に導かれなていたんだなぁ。そんなこともあるのだ。

                                              小林 克
          

2016年11月20日(日)


・見えざるもの

だいたいそうなのだが、しんどいところがあると人はそれしか見えなくなる。

片足が重いと、その重い片足にしか意識はいかなくなる。いやー足が重いな、重いな、なんでかなと重い足に何か悪さがある気がするものだ。実は逆の足に問題があるのだが。

腰が痛い時、腰にしか目はいかないのだ。足先を触ってみてほしい。だいたい冷えている。

心がしんどい時、体はその前からピークに至ってることが多い。寝不足とか。

自分のからだ、習慣、心を細かく観察すれば、その微細な変化はだんだんわかってくる。これは注意して見ないとわからないのだ。

だいたいの場合はこのサインに気づく間も無く、しんどさに至る。そこで初めて気づく、見直すことは多い。

自分のなかにある良いバランスは自分にしかわからない。

僕はそれをみつける手助けをしている。

自分の変化がわかれば、にっちもさっちも行かなくなるという状態までならないで済むことが多くなってくる。自分でなんとかならなくても、誰かに素直に頼ることもできる。

当院が目指す状態とは、そういうところだと思う。

だから、毎日エクササイズをするのだ。エクササイズを通して、自分を知るのだ。これは、ヨガも同じことだし、フルフォードの提唱する体操も同じことである。

治癒力は常に僕たちを守っている。そのことにきづくには、それを見ようとする他にない。

今日もみて下さり、ありがとうございます。随分紅葉が進んできた。日本って美しいなぁ。

                                              小林 克
          

2016年11月21日(月)


・こども

僕が家に帰ってくると、いの一番にドアをあけてくれる。

やったー、やったーと全身で喜んでくれる、その姿をみると、いつも感じる。

自分は生きていていい人間なのだと

思春期のころ、だれでも自分の存在を否定した経験はあるのではないだろうか。

自分はいらないのではないか?

必要とされていないのではないか?

自分なんて…

あるいはその何者でもない寂しさを社会のせいにしたかもしれない。

なんでこんな社会にしたんだとか

こんな社会誰が作ったんだとか

自分の場合はいやいやそんなこと思ってるけどおれはもう大人だ。作ってく側だよ。

というパラダイムシフトが

僕の人生を決定づけていくことになった。

そんなこんなで時が流れ、就職、結婚、起業、出産、育児と少しずつそんな出来事から自分を知り、役割ができ、自分に対しても、世界に対しても、僕の認識は変わっていった。

思春期を生きていたあのころ、到底今の僕の姿は想像できなかったし、今のような考えもできなかったと思う。

僕たちの未来はきっと、今想像できるものではないのかもしれない。

だからこそ、生きていたいし、生きているものだと思った。

そんなことをふと思った初冬のある日。今日はなぜだかいつもより暑い。

今日もみてくださり、ありがとうございます。僕が暑く感じているのは、たった今バスに乗るため走ったから。とんだ落ちだな、こりゃ。
                                              小林 克
          

2016年11月22日(火)


・トラウマ

人は外傷をうけるとどうなるか。

例えば、事故にあって足を怪我したとしよう。

その足には、車とぶつかったという事実に即した変化が起こる。例えば、血が出たり、ひどい場合は骨折したり、打撲となったり。

でもそれだけだろうか?

外傷というのは結果にすぎない。その結果を受け入れるため、衝撃をなんとか逃がすため身体がこなした努力があることを多くの人は知らない。

外傷となる前に、筋膜はその衝撃に耐えながら、同時に分散させ、ねじれながら対応している。その努力もむなしく、それを超えた力であったなら、その衝撃は、骨や血管まで到達することとなり、骨折や外傷という状態をつくるのだ。

だから、足の外傷というのは、見えているものだけではない。筋膜などは必ずねじれその痕跡を残す。それは、レントゲンにはうつらない。見えもしない。感覚鋭いセラピストが触れてだけわかるものだ。

そして、それだけですむだろうか?

残念ながらその代償は足だけではない。足への衝突を逃げようとした体は、その過程のいくらかを体に刻むこともあるし、なによりその恐怖心は、筋膜にねじれとしても記憶される。

そうやって、私たちの体は、事故とい出来事から己の体へのダメージを最小限にして、次に生かしているのだ。

厳密にこれに対応できるのは、オステオパシーだけではないかと思う。

事故の場合、訴訟だのなんだのという話になるかもしれないが、このようなことが加味されることはおそらくないだろう。見えないものは証拠にはならない。

僕たちにできるのは、ただ自分の体と心を労わることだ。そして、前向きに生きるための行動をしていくことしかない。それが結果、治癒力の本当の力を引き出していくことになるのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。そんな危ないことには、会わないにこしたことはない。その根本は焦らず、落ち着いたこころ。

                                              小林 克
          

2016年11月23日(水)


・山あり谷あり

悪い時はだいたいそんな出来事が続くことが多い。

なんて日だ!

と、これはバイキング小峠のギャグだが、それにみんな共通認識を持って笑えるとうことは、そんな経験はだいたいあるということかもしれない。

昨日はなぜだか、アクシデントの多い日だった。

そんな一日のあと、深夜家に帰宅し、たまたま目に付いたのが、棋士村山聖のドキュメントだ。

若くして生涯を閉じたその生き様を描く映像の中で、心に残った言葉がある。

「人間は悲しみ、苦しむために生まれた。それが人間の宿命であり、幸せだ。」

きっと人生の解釈は色々ある。楽しさに目を向ける考えもあれば、苦しみに目をむける考えもあると思う。

幸せになるために、楽しいと思えることだけをやりなさい。ということも、確かにあるかもしれないが、なかなかそうコントロールできないのが、本当のところでもある。

だれしもこれだけは解決したら…

そんなことはあるものだ。それを幸せと、もし言えるのなら、「人生は幸せだ」と本当に言えるんじゃないかと思った。

きっとその人の言葉は多くの人を勇気づける。

そんなことを思った、深夜2時。今日は昨日より寒いらしい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。山あり谷あり。サイン曲線の描く人生の道のりを、今日も歩む。

                                              小林 克
          

2016年11月24日(木)


・何かが生まれて何かがこぼれた

大きい円のまぁるい何か

あったかくて、美しくて、フワフワしている

そんな何かが生まれたあとのもう一つの何か

小さなビー玉のよう

よく見ると茶色くにごった模様をしてる?

これはなんだろうか?

よく中身をみようと目を近づける

にごっていたように見えた模様は外側で、

中を見れば、無色透明な世界しか見えない。

中さえみれば、そんな世界が広がっている。

何かが生まれて、何かがこぼれた

そこにあるのは、透明な世界

今日もみていただき、ありがとうございます。中学校の前。先生方がみんなで枯葉を集める作業に季節を感じる。あんな大きなちりとりあったんだなぁ。

                                              小林 克
          

2016年11月25日(金)


・燃焼するということ

ちょうど大学受験にむけて、必死で勉強してたころのことだ。受験戦争という言葉がある通り、受験生に余裕はない。人生が決まるかもしれないというはじめての不安感や、周りの熱気にも後押しされて、毎日せわしなく、すごす。

そんな時、自分の恩師といえる人にこんなことを言われたことを覚えている。

「まだまだだ。」

「まだ本気になっていない。」

「出し惜しみをするな。出し惜しみをして生きるやつは、出し惜しみした人生になる。

燃え尽きるまでやりなさい。きみはまだまだだよ。」

自分の中では、結構いっぱいいっぱい頑張ってるつもりだったので、突然後ろから頭を殴られたような衝撃があった。

この言葉は、単に勉強がんばれということだけではない。そう、当時の僕でも解釈できた。そんな愛に満ちた言葉に思えた。

確かに、頑張ってはいたが受験勉強に対する疑問は消えてはいなかったような気がする。なりたいものになるにはこれを通過しなければならないのに、今やっていることは、自分のなりたい姿に何が足しになるのか?こんな無駄なことを…

そんな自分の中にあったくすぶりを言い当てられた気がした。

それ以降、より濃密に、とにかく濃い濃度にしていくかのように、そんなつもりで物事に取り組んだ。

結局一回目の受験は箸にも、棒にもかからずだめだったんだけど、その経験は僕の中で何かを変える経験となった。

「燃焼すること」

あの時の言葉を、今また思い出す。

自分の人生に出し惜しみはしたくない。

でも、あの時よりは全然マシだ。

やってることと、やりたいことにブレがない。

あの時を経験しなかったら、今の僕はいない。

そう思える。

今日も見てくださり、ありがとうございます。もっと濃く。特濃ソースより濃く。


                                              小林 克
          

2016年11月26日(土)


・食べる速度と食べる量

みんな良く食べるなあと思う時がある。

訪問リハビリで外回りをしているので、お昼を外で済ませることが週に一、二回ある。だいたい決まったうどん屋さんに入ることが多い。

そのうどん屋さんは、讃岐うどんスタイルと言ったらいいのか。最初にうどんの種類(かけ、ぶっかけ、釜揚げ、釜玉とか)を選んで、そのあとトレーを持って移動し、好きな天ぷらとかおにぎりとか選んでお会計するという形式のお店だ。

讃岐うどんで麺も太く、ぼくにとっては食べ応え十分で、うどん一杯で満足してしまう。それ以上食べるとだいたい次の患者さんの時に眠たくなってしまう。

ちょっと、驚いたのが、他のお客さんの食べっぷりだ。

男性だと、うどん大盛りに丼ぶりをつけたり、女性でもうどんの並におにぎり2個にてんぷらという感じだ。

常連になってる僕と違い、たまの外食で胃袋が大きくなるというのは、よくあることだし、ここのうどんは美味しいしな。

しかし、もっと驚いたのは食べる速さだった。

僕がうどん一杯食べ終わるころには、もう食べ終わっている。

うどんは飲むものと聞いたことがあるが、まさにそれを体現していた。

うどんをいちいち噛む僕が遅いのは当然だ。もしかしたらそれもあって、満足が早いのかもしれない。

よく噛むことが大事とかそんなことがいいたいのではなくて、食事というのには色々な方法があっていいということ。

そして、食事を通して幸せを感じる方法もきっと色々ある。

僕はよく噛むことで感じる甘みに幸せを感じるだけだと思う。でも、もしそういう早い食べ方しかしてこなかったなら一度か二度試す価値はあるかもしれない。

吟味しつくすというのは、よく噛みしめるイメージがあるけど、本当は多方面の方法を知る、感じることなんだろう。

僕もうどんを飲むように食べたい時もあるしね。

今日も見てくださり、ありがとうございます。幸せの感じ方はひとそれぞれ。そして、それぞれの幸せを知るのも幸せ。


                                              小林 克
          

2016年11月27日(日)


・バトンは引き継ぎ、引き継がれ

ダルビッシュゆうの動画を見ていたら、こんなことを言っていた。

「僕が体験したことや勉強したことを下の世代に伝えることで、大谷とか下の世代が僕よりすごくなっていかないとダメだと思うんですよ」

じんわりきているそんな同日

たまたま妻と、僕の今は亡き恩師の話となった。

久しぶりにその、恩師のすごさや、その意味、を熱っぽく語った。きっと会ったこともない妻は、話の内容はさっぱりだったと思うんだけど、じっくり聞いてくれた。

最後にあったのは、そんな予定もない本当に偶然だった。

きっとあの時バトンを受け取ったのだ。

あの人との出会いがなければ、今の僕の臨床は決してない。

からだと心の、こころの側面を教えてくれた人だった。

僕の探求は、どこまで深めることができるだろうか。

僕はきっと欲張りなのだろう。なんとか、僕の世代で、探求の旅を終わりにしたいと思うくせがある。

でも、ふと思った。

僕の下の世代が僕が突き詰めた探求をさらに広範囲に応用し、より広め、深め、表現している姿を想像すると、僕も今よりより、深めていける気がする。

リレーと一緒だ。

仲間がいるからがんばれた。

仲間がいるから、少しでも詰めることができた。

走っているのは、一人でも

そのコースには、仲間がいる。ともに走っているのだ、と。

今はつながっている。過去とも未来とも。そして、ゴールはその先で、きっとそこに行き着いたら、みんなが笑えるはずなんだ。

そんなことを思ったある日。

今日も見てくださり、ありがとうございます。何かのレールに乗るのも悪くない。みんなだれかのレールの上。
                                              小林 克
          

2016年11月28日(月)


・カセットコンロと向き合って、最後のガス抜きをしている。

まだあったのかと驚くとともに、

ゆらゆらと揺らめく火をみると

こころが落ち着くのは、本能なのだろうか。

ガスにせよ、電気にせよ、夜を過ごす術は格段に進歩をとげた。

でも、ほんの何世紀か前では、こんなこと当たり前ではなかったろうし、世界の国々をみれば、当たり前な国の方が少ないのだろう。

暖かいものが飲めて、光があって、

そんな中で、過ごすことが当たり前の僕たちは、

その当たり前の大切さを見失いがちになる。

かといって、戻ることもできない自分にできることといえば、

できる限り中立位をたもって、想像を働かせて、思いをはせることくらいかもしれない。

もし、そうなったら、もしその立場なら、もし、こんな状況だったら。

それを想像することは、過去に思いをはせるにしろ、未来に思いをはせるにしろ、僕にとっては大切なことなんだと思う。

きっとそうすることが、自分も見失わないことになるのかもしれない。

朝っぱらからそんなことを考える。

今日も見てくださり、ありがとうございます。自分にやれることは全部やる。今はそんな想いだ。もうすぐ師走、少しずつ賑やかになってくる。

                                              小林 克
          

2016年11月29日(火)


・髪をきる。

職人の手に触れてもらうということは、僕にとっては稀なことだ。

自分のほとんどの時間を他人に触れることで、仕事として過ごしている自分にとって、

医療者以外の職人のような人に自分が触れてもらっているのは、髪を切るときくらいだろうか。

そんな稀な機会を堪能して、

改めて思う。

触れるということは、触れられるということは、本当に素晴らしいことだ。

職人はただ触れない。

対象の物に対しての、知識、手の感覚、集中力、そのもののかもす、物質以上の情報、それらを込めて、感じて触れる。

その熱量は、ただ触れるとは別の次元のものだ。

僕は、想いや気持ちが何かを変えるとは、思っていないが、その熱量は確かに変えうる力を持つと思っている。

熱量というのは、その人の研鑽した日々、試行錯誤なやんだ心の葛藤、一回の介入にかける思い、その人そのものからでる愛情の経験、物事に対する知識とその努力。

その全てを表し、それが顕現すると思っている。

想いはあくまで一部。それだけで変わるとは言いきれない。でも、大切な一部だ。

だから、今の経験は無駄にはならない。それは、いつかの未来に、その熱量として現れ、他にはない結果を出していくものだと思っている。

薬が人をなおしているとはやっぱり思えない。本心では。

その薬を作った人の想い、熱量が、その人たちの努力が、それを提供しようとする人たち一人一人の努力が、その結果を実現している気がするんだ。

だって、体を本当に小さいところまで見渡せば、僕らの体重を示すものは、物質と物質の反発力でしかない。最後の最後、物質を基底しているものは、エネルギーだけなのだから。そして、現実的にそれを動かしているのは、意志だけである。

そうやって、今日もまた仕事につく。ひとつひとつの想いを重ねて。自分にできるひとつひとつを丁寧に。

今日も見てくださり、ありがとうございます。冬だからこそ、短くいこう。ということで、だいぶさっぱりしました。

                                              小林 克
          

2016年11月30日(水)


・物事には波があり、その中を生きる。

物事には波がある。そういうのがだんだん感じられる歳になってきた。

波といってもいろんな表現があると思う。

ぐーっとどんどんいけいけでやれる時もあれば、逆に何か雲を掴むかのようにうまくいかないこと。停滞して動かない時。

毎日同じことをやると、その中でもやはり波がある。

僕が毎日することといえば、

患者さんを診ること
体操すること
ブログを書くこと

特に最近はこの3つ。
やはりそれぞれに波があった。それも、様々に。

1日ごとに違うこともあれば、浮いたりしずんだりなども細かく見ればあったと思う。

しかし、総じて言えると感じるのは、そんな波の中を生きながらも、少しずつ全体的には階段を上がっているということだ。

浮き沈みあるにもかかわらず階段を上がっているのか、

浮き沈みがある波の中で生きているからこそ、階段を上がっているのか

は、わからないが、個人的には後者だと思っている。

リハビリをずっと見てても同じことがいえるからだ。浮き沈みがあるのは、何かをやっているからこそ。何かにチャレンジするからこそ。浮き沈みができ、自分の感情やそれについての技術やいろんなものと向き合うことになっていく。

それが浮き沈みとして見えるだけ。

全ては、進んでいる。

逆になにもしていなければ、何も起こらない。ぼんやり、ずーっと同じような日々が過ぎていくのなら、それはたぶん何か目的がないか、目的への方法がないか、じだんだ踏んでる状態なんだろう。

大きい目でみれば、それも波の中だ。

なにせ僕たちは生きるというチャレンジをし続けている。

僕たちにとって魅力的に見えるひとがいても、その人が今いい時を生きているのか、停滞している時を生きているのか、それはわからない。

きっと魅力的に見えてるのであれば、それは、人生の波を越えてきた今の結果を表しているのだろう。

でも、忘れてはいけないなぁと思うのは、その人も今僕たちと同じように、僕たちとは違う内容かもしれないが、悩み、その人の波の中を生きているはずだということ。

憧れは、ある時の力をくれるものだが、過剰な憧れは物事を見誤る。

そんなことを思った。

今日も見てくださり、ありがとうございます。朝の自転車で耳が痛くなってきた。もうすぐ冬がくるね。
                                              小林 克