創始者アンドリュー・テイラー・スティル

 

これは、アンドリュー・テイラースティルという医師の苦悩と成功の物語です。

 

オステオパシーの思想とその手技は、スコットランド系アメリカ人の4世、アンドリュー・テイラー・スティル(1828~1917)によって考案されました。

 

スティルはごく初期から婦人参政権を支持し、奴隷制に反対していた人で、北軍の兵士として、また軍医として、南北戦争で戦いました。 南北戦争後、彼に大きな不運が待ち構えていました。

 

3人の息子を脊髄髄膜炎で亡くしてしまうのです。

 

スティルは、大きな悲しみに暮れながら、現存する正当医学(西洋医学)が完璧ではないことを知ります。そして、時にはそれは有害でさえあると考えるようになります。

 

当時、医学には、大きく分けて三つの流れがありました。ホメオパシー、アロパシー、折衷医学の三つです。

 

ホメオパシー医学は、サムエル・ハーネマンが考案した、患者の症状と同じような症状をおこす薬剤をごく微量投与するという考えに基づいています。

 

アロパシーは今でも現代西洋医学にたいして使われている名称で、ホメオパシーとは逆で、「症状とは反対の」作用をもった薬剤を投与するというところにあります。スティル博士の時代も、アロパシー医は病気の治療にもっぱらそうした、薬剤を使い、スティル博士自身もミズーリ州でメディカルドクター(M.D.)の資格を得ています。

 

折衷派はその名称からもわかるとおり、いろいろな考え方の医学の方法を適当に組み合わせたもので、厳密さに欠け、治療法も一貫性のないものでした。

 

スティル博士は、そのいずれにも満足せず、むしろそれらには何かが欠けているのではないかという結論に至ります。その当時にあった医学は、まだまだ病気や、人の体に対して、十分な観察や考察がなされているわけではなく、不完全な観察に基づかれた、不完全な記録(経験論)でしかないと考えたのです。

それからの10年間、スティル博士は人体の病のよりよく扱うにはどうしたらよいか独自の研究を始めます。

 

それは、果てしない道なき道を進むことに等しいものでした。

スティル博士は、慣れ親しんだ医学書を捨て、独自に人体を勉強し始めます。その研究は、生きた男女の身体からインディアンの人骨や死体、そして動物の体にまで及びました。

誰かが行った研究も自分自身で再度検討し直し、彼独自の結論を得ました。

大切なのは、有名なだれかが言った「考え」ではなく、有効な実験によってテストされ、彼自身が真実と確信がもてる「事実」のみであると信じたのです。

それこそ、人骨を手にとり、何週、何ヶ月も目が覚めているときは手放すことがないほど、研究に没頭していきます。

 

そして、一つの結論を導き出します。

 

 

                    「構造が機能を決定づける」

 

正常な機能(生理機能)が発揮されるためには、前提として正常な構造が必要であり、正常な免疫機能も正常な構造によって成り立つということを発見します。どんな病気も必ず筋骨格系の異常が存在し、循環系と神経系のアンバランスがその症状を起こしていると考えたのです。それを解決するにはからだに手技をほどこして、ほどよい循環をとりもどせばいい。スティル博士は自分が人類に益する貴重な手段を見つけたことを確信し、その方法に「骨」を意味する「オステオ」と「病む」を意味する「パソス」というギリシャ語から「オステオパシー」と名づけます。

 

しかし、この考えを公表したことによって、スティル博士は嘲笑を受け、狂人と扱われ、多くの友人も彼のもとを離れていきました。生活は貧困を極め、いくつかの場所に移り住んだあと、ミズーリ州に導かれます。

 

それまで全く評価されることのなかった彼の考えが、彼の患者が健康を取り戻していくのを見て、受けいられ始めたのです。  

そして、やがてそこは噂を聞きつけた全米中の患者が集まり、ホテルや食堂までもできるようになり、大きな町へと発展していくまでになったのです。その後、1892年に最初のオステオパシーの学校が設立され、現在も”A.T.STILL UNIVERSITY”として存在し、多くのオステオパシードクター(D.O.)を輩出しています。また、現在オステオパシーはアメリカでは、医学として公認されており、医師として手術や投薬などすべての医療行為が許されています。

 

また、日本ではまだ認知度は低いですが、世界では広く受け入れられ、ヨーロッパ各国やカナダ、オーストラリアなど多くの国々においても、教育や研究が盛んに行われています。国家医療資格として認められている国も数多く存在し、多くの国々で代替医療の第1選択として実践されています。